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鲁迅《社戏》(日汉对照)(五)

両岸の豆麦と河底の水草から発散する薫(かおり)は、水気の中に入りまじって面(おもて)を撲(う)って吹きつけた。月の色はもうろうとしてこの水気の中に漂っていた。薄黒いデコボコの連山は、さながら勇躍せる鉄の獣(けだもの)の背にも似て、あとへあとへと行(ゆ)くようにも見えた。それでもわたしは船脚(ふなあし)がのろくさくさえ思われた。彼等は四度(よたび)手を換えた時、ようやく趙荘がぼんやり見え出して、歌声もどうやら聞えて来た。幾つかの火は舞台の明りか、それともまた漁りの火か。


两岸的豆麦和河底的水草所发散出来的清香,夹杂在水气中扑面的吹来;月色便朦胧在这水气里。谈黑的起伏的连山,仿佛是踊跃的铁的兽脊似的,都远远地向船尾跑去了,但我却还以为船慢。他们换了四回手,渐望见依稀的赵庄,而且似乎听到歌吹了,还是几点火,料想便是戏台,但或者也许是渔火。


あの声はたぶん横笛だろう。宛転悠揚(えんてんゆうよう)としてわたしの心を押し沈め、我れを忘れていると、それは豆麦や藻草の薫(かおり)の夜気(やき)の中に、散りひろがってゆくようにも覚えた。


那声音大概是横笛,宛转,悠扬,使我的心也沉静,然而又自失起来,觉得要和他弥散在含着豆麦蕴藻之香的夜气里。


その火は近づいた。果して漁り火だった。わたしが今し方見たのは趙荘ではなかった。それは一叢(ひとむれ)の松林で、わたしは去年遊びに来て知っていたが、今も壊れた石馬(せきば)が河端(かわばた)にのめって、一つの石羊(せきよう)が草の中にうずくまっていた。この林を越すと、船はぐるりと廻ってまた港に入(い)り、そこで初めて趙荘が見えた。


那火接近了,果然是渔火;我才记得先前望见的也不是赵庄。那是正对船头的一丛松柏林,我去年也曾经去游玩过,还看见破的石马倒在地下,一个石羊蹲在草里呢。过了那林,船便弯进了叉港,于是赵庄便真在眼前了。


何よりも先(さ)きに眼に入(い)ったのは村の端(はず)れの河添いの空地に突立っている一つの舞台だ。ぼんやりとした遠くの方の月夜の中で、空間(くうかん)の諸物がほとんどハッキリ分界していなかった。わたしは画(え)の中の仙境がここへ出現したのかと思った。この時船はいっそう早く走って、まもなく舞台の人が見え、赤い物や青い物が動いて舞台の側の河の中に真黒(まっくろ)に見えるのは、見物人の船の苫(とま)だ。


最惹眼的是屹立在庄外临河的空地上的一座戏台,模胡在远外的月夜中,和空间几乎分不出界限,我疑心画上见过的仙境,就在这里出现了。这时船走得更快,不多时,在台上显出人物来,红红绿绿的动,近台的河里一望乌黑的是看戏的人家的船篷。


「前の方に空間(あきま)がないから俺達は遠くの方で見よう」と阿發が言った。


船はここまで来ると、ゆっくり漕ぎ出して、だんだん側に近づいてみると果たして空間(あきま)がなかった。みんなが棹をおろしたところは、舞台の正面からはずいぶん離れていた。正直に言うと、わたしどもの白苫(しろとま)の船は黒苫(くろとま)の船の側へ行(ゆ)くのはいやなんだ。まして空間(あきま)がないのだから。


停船の間際に舞台の上を見ると黒い長※[#「髟/胡」、239-1]の男が、四つの旗(はた)を背に挿して、長槍をしごき、腕を剥き出した大勢の男と戦いの最中であった。 「あれは名高い荒事師(あらごとし)だ。蜻蛉(とんぼ)返りの四十八手が皆出来るんだよ。昼間幾度も出た」と雙喜は言った。


“近台没有什么空了,我们远远的看罢。”阿发说。


这时船慢了,不久就到,果然近不得台旁,大家只能下了篙,比那正对戏台的神棚还要远。其实我们这白篷的航船,本也不愿意和乌篷的船在一处,而况并没有空地呢……在停船的匆忙中,看见台上有一个黑的长胡子的背上插着四张旗,捏着长枪,和一群赤膊的人正打仗。双喜说,那就是有名的铁头老生,能连翻八十四个筋斗,他日里亲自数过的。


わたしどもは皆|船頭(みよし)に立って戦争を見ていたが、その荒事師は決して蜻蛉返りをしなかった。ただ腕を剥き出した男が四五人、逆蜻蛉を打つと皆引込んでしまった。続いて一人の女形(おやま)が出てイーイーアーアーと唱った。雙喜はまた言った。


「夜は見物が少いから、荒事師は怠けているのだ。誰だってしんそこの腕前を無駄に見せるのはいやだからね」


全くそうだった。その時舞台の下にはあまり多くの人を見なかった。田舎者はあすの仕事があるから、夜になると我慢が出来ず皆|睡(ねむ)りに行った。ちらばら立っているのはこの村と隣の村の閑人であった。黒い苫船の中に立っているのはいうまでもなく村の物持の家族であった。けれど彼等は芝居を見ているのではなかった。大抵はそこでお菓子や果物や瓜などを食べていた。だから平たく言えば見物が無いと言ってもいいくらいで、雙喜が無駄だといったのも無理はない。


我们便都挤在船头上看打仗,但那铁头老生却又并不翻筋斗,只有几个赤膊的人翻,翻了一阵,都进去了,接着走出一个小旦来,咿咿呀呀的唱。双喜说,“晚上看客少,铁头老生也懈了,谁肯显本领给白地看吗?”我相信这话对,因为其时台下已经不很有人,乡下人为了明天的工作,熬不得夜,早都睡觉去了,疏疏朗朗的站着的不过是几十个本村和邻村的闲汉。乌篷船里的那些土财主的家眷固然在,然而他们也不在乎看戏,多半是专到戏台下来吃糕饼水果和瓜子的。所以简直可以算白地。


わたしは格別、逆蜻蛉を見たいとも思わなかった。わたしの見たいのは、役者が白い布(きれ)をかぶって一つの蛇のような蛇の精を両手に捧げているのと、もう一つは黄いろい著物(きもの)を著(き)た虎のような虎が躍り出すことである。わたしはそれをいつまでも待っていたが遂に見ることが出来なかった。女形(おやま)が引込むと、今度は皺だらけの若旦那が出て来た。わたしはもう退屈して桂生(けいせい)に吩咐(いいつ)け豆乳を買いにやった。桂生はすぐ返って来た。


「ありません。豆乳屋の聾(つんぼ)は帰ってしまいました。昼間はあったんですがね、わたしは二杯食べました。仕方がない。お湯を一杯貰って来て上げましょうか」


然而我的意思却也并不在乎看翻筋斗。我最愿意看的是一个人蒙了白布,两手在头上捧着一支棒似的蛇头的蛇精,其次是套了黄布衣跳老虎。但是等了许多时都不见,小旦虽然进去了,立刻又出来了一个很老的小生。我有些疲倦了,托挂生买豆浆去。他去了一刻,回来说,“没有。卖豆浆的聋子也回去了。日里倒有,我还喝了两碗呢。现在去舀一瓢水来给你喝罢。”


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