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读解问题-5

作者:佚名  来源:本站原创   更新:2004-5-21 23:47:00  点击:  切换到繁體中文

 

次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。 

 

  なぜ砂漠にそんなに惹かれるのか、自分にもよくわからない。しかし、おそらく、砂漠というものが、私にとってはまったくの反世界だからだろうと思う。

  たしかに砂漠は私たちの住む日本の風土の反対の極と言ってもいいであろう。和辻哲郎はあの有名な『風土』という書物のなかで、世界の風土をモンスーン型、牧場型、砂漠型の三つに分け、砂漠型を私たちの住むモンスーン型風土の対極に置いた。そしてモンスーン型の日本人がインド洋を抜けてアラビア半島にたどりついたときの衝撃を記している。その衝撃とは、気持ちのよさ、楽しさ、嬉しさを表現しているのであって、決

 してその逆ではない。「人間いたるところに青山あり」などと考えているモンスーン型日本人が、どこをどう見まわしても青山など見あたらぬ乾き切った風土に直面したおどろきだと言う。

  たしかに砂漠は、青山的な私にとって衝撃そのものだった。そこにあるのはただ砂と空だけなのだから。けれど、そうした砂の世界に何日か身を置いてみると、やがて砂は私になにごとかをささやきはじめる。そして、不思議なことに、こんどは自分が住んでいるモンスーン型の日本の風土や、そこにくりひろげられている生活が、反世界のように思えてくるのである。

  砂漠には何もない。何もないということが当然のようになってくると、逆に、なぜ日本の生活にはあんなにもたくさんものがあるのか、奇妙に思えてくる。あんなに多くのものに取り巻かれなければ暮らしてゆけないのだろうか、と。もしかしたら、それらのものは、ぜんぶ余計なものではないのか。余計なものに取り巻かれて暮らしているから、余計な心配ばかりがふえ、かんじんの生きる意味が見失われてしまうのではないか……。

  しかし、待てよ、と私は考える。生きてゆくのに必要なものだけしかないということは、文化がないということではないか。生きてゆくうえに必要なもの、それを上まわる余分のものこそが、じつは文化ではないか。文化とは、言ってみれば、余計なものの集積なのではないか。だとすれば、( A )を肯定することは、文化を否定することになりはしまいか……。

  それにしても――と私はさらに考えなおす。私たちはあまりにも余分なものを抱えこみすぎているのではなかろうか。余分なものこそ文化にはちがいないが、さりとて、余分なもののすべてが文化であるわけもなかろう。余分なもののなかで、どれが意味があり、何が無価値であるか、それをもういちど考えなおす必要がありはしまいか……。

  砂漠とは、こうした反省を私にもたらす世界である。砂漠は現代の文明社会に生きる人びとにとって、一種の鏡の国と言ってもいいような気がする。私は砂漠に身を置くたびに、ある探検家がしみじみもらしたつぎのことばをかみしめる。

 「砂漠とは、そこへ入りこむさきには心配で、そこから出て行くときにはなんの名残もない。そういう地域である。砂漠には何もない。ただ、その人自身の( B )だけがあるのだ」

 

 問題1 ( A )にあてはまる最も適当なことばを本文中から抜き出して書きなさい。

問題2 ( B )にあてはまる最も適当なことばを本文中から抜き出して書きなさい。

 

 

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