日本語もひとつの画像であり、時には風景そのものである。とりわけ、かなと漢字の共用は、あたかも水と油を混ぜたような状態にみえる。水はかなで、透光に澄みきっている。ぎりぎりまで省略されたわずかな筆画は、まるで樹枝のように漢字の中をひっきりなしにかき回している。その一方、かなによって壊された漢字は、妙にさっぱりしている。漢字は油で、かなの中に滴らせるとすぐに凝固する。そしてその痕跡だけは、かなと共に流れ漂いはじめる。漢字はひらかなと共に揺れ動きながら、かたかなによって浮かび上がることもある。漢字は動きまわるかなによって、その隠喩が解釈されるのであろう。かなを海とすると、漢字は島である。私は、一隻の船のように海と島の間を自由に往来する。出身地が漢字の島であることは、私の宿命かもしれないが、それは実に愉快なことでもある。なぜなら私は更なる広大な空間を目の前にして、島を取り囲む大海原をも満喫することができるからである。二つの言葉で書き物をしているこの私に、神様が新しい生命を授けてくれた気がする。
日语也是图像,有时更像风景,尤其是假名与汉字的并用,犹如水和油注入到一起的状态。水是假名,清彻而透光,看上去是一些枝节破碎的笔划在汉字中穿梭,但假名之于汉字的拆卸作用却使汉字显露出被稀释以后的爽朗。汉字是油,滴入假名当中的那一瞬间或许是凝固住的一块痕迹,它随着假名而荡漾,不仅依靠平假名的托起,而且还借助平假名的游离,使汉字的隐喻得以最大限度的释放。
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