風景としての日本語
日语是风景
日本語と中国語は、どちらも漢字を言語の骨組みとして成り立っている。漢字のなかには、一つの文字がいきいきとした画像として完成されているものもある。これは単なる意味を伝達する記号ではなく、われわれの視覚に直接訴えかけているものでもあるように思われる。中国語を母国語とする者にとって、日本語の仮名に引き付けられる時もあり、また漢字を「薄めた」後に残された線にいささかの違和感や困惑を覚えることもある。かなの存在は既に文法的なレベルだけではなく、漢字を見る我々の視覚にとっては、そのイメージを緩和するような働きをも持っている。かなは、漢字の偏旁だという定義がある。が、厚味のないかなの筆画が、漢字の群の中を織り込むように遊泳するさまは、まるで沙漠のなかにあわれてきたオアシスのようである。
无论是日语,还是中文,它们都是以汉字为语言框架的,而且在这一框架之中,每一个字形的出现都是通过生动的图像而完成的,这里不仅传达了具体的意义,而且还为使用者提供一个直诉视觉的机会。对于把中文当作母语的人来说,当他的目光被日语中的假名所吸引,或者被那种淡化汉字以后所呈现的简单笔划所困惑的时候,日语假名似乎就不仅是一个语法上的存在,而是变成了为视觉服务的一种印象缓冲剂。假名是汉字的偏旁,而且它每一次单薄的笔划漫游在汉字当中,有时就像沙漠中的绿洲一样。
ひとつの画像としての漢字の存在を考えると、その形の豊満さもさることながら、意味空間にまで溢れ出て奥深い潭のように水底はほとんど見えてこない。人間の想像力に与える漢字の影響は、実に大きなものであるが、そのすべてが、表形でないと言い表わせないような内なる企図で、時には人に苦労を重ねさせる結果にもなる。画像は空であり、また人間を束縛する籠でもある。二つの言葉で文筆活動を行っている私は、最近になって日本語に対するイメージがずいぶん変わった気がする。
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