今年初めての授業が終わったあと、お昼を食べに行こうということになり、近くのレストランに出かけた。そして上級者の彼は少しにやにやしながらこんなことを言い出した。「先生、どうして昼だけ『お』がつくんですか…」である。最初は何のことだかよく分からなかったが…、なぜ「お昼」はいいのに「お朝」や「お夜」はダメなのか、である。
今年第一次课程结束之后,去附近的一个餐厅吃午饭。一个高年级学生暗笑着问我,“老师,为什么只有昼前加「お」呢”。最开始不明白他问的是什么意思。原来是为什么「お昼」可以,「お朝」或「お夜」就不行呢。
長年日本語教師をしているが、この質問は始めてである。うーん…、そんなこと当たり前のことで考えたこともなかった。でも確かに「お昼」は使うが「お朝」や「お夜」は使わない。でも改めてなぜと聞かれると誠に困ってしまった。
虽然做很多年日语教师了,但这个问题还是第一次遇到。嗯,一直以为这样说是理所当然的,没有考虑过为什么。确实,「お昼」可以用,却没有人说「お朝」或「お夜」。被问到为什么时还真是让人头疼。
初級では「お金」や「お荷物」などのように「お」をつけると丁寧な言い方になると教えている。そしてこの「お」を付けることに関して、日本語学習者ならではのいろいろ面白い話がある。
初级日语教学时曾告诉学生像「お金」或「お荷物」这样单词前加「お」是礼貌用法。而关于单词前加「お」的问题,闹了许多日语学习者独有的笑话。
ひとつの例として日本語中級レベルの生徒だった日系3世のスチュワーデスがお客さんに「前の荷物を…」と言おうとして「お前の荷物を…」と言ってしまった。また外国の人が夜遅く電話をしたとき「夜分、すみません」を丁寧に言おうとして「夜分」に「お」をつけてしまった…などなどである。
举一个例子,日语中级水平的学生·日裔第三代的一位空乘,本想对乘客说「前の荷物を…(前面的行李)」结果说成了「お前の荷物を…(你小子的行李)」。还有一个外国人,深夜打来电话想尊敬地说「夜分、すみません(深夜多有打扰)」结果在「夜分」前加了「お」等(注:「親分(おやぶん)」是指老板、头儿)。
確かに初級に「朝、昼、夜」と習ったのだから丁寧に言おうとしたら「お朝、お昼、お夜」であろう。でも確かに「お朝」や「お夜」とは言わない。でもなぜ…。言わないのだから言わないのと言いたいところだが…、やはり日本語の文化である「内」と「外」が絡んでいるのであろう。基本的に朝と夜は「内」である家族と一緒にいる時間であり、取り立てて丁寧な言い方は必要ない。しかし昼は「外」の人と会うことが多く、丁寧な言い方である「お昼」が必要であり、どんどん馴染んできたのであろう。
确实,因为初级学了「朝、昼、夜」,礼貌来说的话大概就是「お朝、お昼、お夜」。但其实没有人会说「お朝」、「お夜」什么的。为什么呢。真想对学生解释因为不这么说所以不这么说…说到底还是和日语文化的「内」和「外」密切相关。基本上早晨和晚上是和「内」(自己人)的家人一起度过的时间。没必要用特别礼貌的语言。但是白天基本上是和「外」的人见面,要使用礼貌用语的「お昼」,于是渐渐成了习惯用法。
そしてよく問題になるのが「夕ごはん」と「晩ごはん」そして「夜ごはん」の違いである。生徒からよく「夜ごはん」はダメですかと聞かれる。確かに「夜ごはん」は辞書には出ていない。そして漢語では「朝食」「昼食」「夕食」であり、「夜食」というと少し意味が変ってしまう。やはり「夕」の付いた「夕ごはん」が一番使われている。
经常出问题的还有「夕ごはん」、「晩ごはん」和「夜ごはん」的区别。学生经常问用「夜ごはん」不行吗。确实字典上是没有「夜ごはん」的。还有汉语词「朝食」「昼食」「夕食」,「夜食」的话意思有稍许变化。最常用的还是加了「夕」的「夕ごはん」。
「夕」は夕日が沈むころであり、「晩」は日が沈んで辺りが暗くなりかけのころ、そして「夜」は完全に暗くってからである。電気など無い時代はなるべく明るいうちに食べなければならず、「夕ごはん」がふさわしかったのであろう。でも生活がどんどん夜型になってきた現代では「夜ごはん」のほうがふさわしい感じがする。やはり言葉も時代とともにどんどん変っていくのは致し方ないことであろう。
「夕」是夕阳下山时,「晩」是太阳已经下山四周天色暗下来,而「夜」是天完全黑了。在没有电的时代,要尽量趁天还亮着吃完饭,用「夕ごはん」比较吻合。但是在逐渐变成夜间生活的现代,我感觉「夜ごはん」倒比较符合。语言随着时代逐渐在变化,这是没有办法的。
でも文化の香を感じる昔の言葉、例えば「筆箱」などにはまだまだ頑張って、「筆」など使わなくなっても「言葉」として何とか残ってもらいたいのだが…。
但是过去的语言能让人感受到文化的芳香,比如「筆箱」(文具盒)还要更努力,即使不再用「筆」了,也希望这个词能留下来…