曖昧な日本語
暧昧的日语
日本語という言語は本当に曖昧だ。
日语这种语言真的很暧昧。
中学時代のこと。クラス内で話し合いが持たれ、そこで意見を求められたとする。意見のある者は言うが、大抵の者は主張はしない。あてられて言う言葉は「特にない」だ。ここで問題なのは「特に」という言葉。誰かが「特にない」と発言すると、担任の先生は決まって「特にない、ということは意見があるということだから、言いなさい」と言っていた。ごもっともである。もう10年以上も前に、散々聞かされたこの言葉、忘れることが出来ない。「特に」というのは、何気なく発する言葉で、「特に」意味はないように思われるが、実際の意味としては、「意見はあるけれど、別に言わなくてもいい」ということになる。
那是发生在我中学时期的事情了。当时在班内进行话题讨论,并征求了大家的意见。有意见的人会提出来,不过大部分人都不怎么表态,要是被点到了,就回应说“没什么特别意见”。问题就在于“特に”这个词。谁要是说了“特にない”,班主任肯定会这么回答:“没什么特别意见就是有意见咯,有就提出来。”说的太对了。十几年前听烂了的这个词,我是怎么都不会忘的。“特に”是无意间说出口的一个词,好像没什么“特别”意思,但实际上会传递出这样的语气——意见有是有,不过不说也行。
後に、語学を専攻することになる僕であるが、外国語に触れれば触れるほど、日本語が気になる。そして、曖昧であることに気づく。翻訳すると如何に曖昧であるかが分かるが、友人に日本語の標語を英語に訳すのを頼まれた時には、身に染みて実感した。主語や目的語が省かれていたりするので、何を指すのか明確に表す英語に訳す時は、曖昧な日本語からいろんな意味が考えられ、非常に難しかったことを覚えている。
后来,我开始专攻语言,越接触外语,就会对日语越是在意,然后,我意识到了日语的暧昧性。虽然也清楚翻译时这种情况尤其多见,但被朋友拜托帮忙将日语标语翻译成英语时,还是切身体验了把。日语有时候会省略主语以及宾语,在将其翻译成直白明了的英语时,意思会因为其暧昧性而产生诸多可能,当时觉得特别头疼。
何気なく「特に」「多分」「~だと思う」「~かも」と使っているのを耳にする。日本人といえば「maybe」と言われるほど、曖昧な民族だと思われているようだが、最近はその傾向がもっと強い。何かを食べた時に「これおいしいかも」、好きだなと思うものに対して「好きかも」、行きたいと思うことに対して「行きたいかも」と、断定を避けて言う。自分のことなのに。おいしいかも、ということは、おいしくないかも、という意味も含まれるということは意識しないでの発言であろうが・・・。
我经常能听到别人无意间使用“特に(特别)”、“多分(也许)”、“~だと思う(我觉得)”、“~かも(可能)”这些表达。提到日本人就想到“maybe”,似乎在他国人眼里,日本就是个暧昧的民族,最近这种倾向尤其严重。吃了什么东西就说“这个也许味道不错”,看到什么喜欢的东西就说“这个搞不好蛮喜欢的”,对于自己想去的地方则说“可能我挺想去的”,总之就是避免下定论,可这明明是自己的事情。是不是他们在说的时候并没有意识到“也许好吃”也包含着“也许不好吃”这样的意思呢……
ここ数年で、はびこりまくっている「~的」というのも、断定を避ける、という意識から若者が使い出した、とテレビで言っていた。「~の方」もしかり。「おタバコの方、お吸いになられますか?」と言われると、タバコと他に何を吸う?と思ってしまうし、出身地や住んでいるところを聞いた際に、例えば「大阪の方」と言われると、「大阪」と断定しているわけではないから、大阪の方というと、京都かも知れないし滋賀かも知れない、はたまた広島かも知れないし九州も知れない、などとあまのじゃく根性を大発揮してしまう。それから、コンビニで800円の買い物をして千円を支払った場合、「千円からお預かり致します」とよく言われるが、千円から、ということは、もっと払わなければならない、という事になる。