柿满枝头 少有摘食
サクランボは色っぽい流行歌になったし、リンゴは青春詩歌に無くてはならない。そこへいくと柿は、同じフルーツながら「わび、さび」のたたずまいが渋い。このあいだ東京西郊の武蔵野を歩いたら、熟した実が斜陽に赤く照っていた
樱桃成了魅力四射的流行歌曲;苹果则是青春诗歌中不可或缺的存在。按照这一思路发展的话,同为水果的柿子“清净、孤寂”的立命之本透着那么一股苦涩。近日,漫步于东京西郊的武藏野,只见熟透了的柿果在夕阳的照射下红扑扑的惹人喜爱。
筆者が育った田舎にも、あちこちに柿の木があった。竿でもいでよく食べたものだ。今はそうでもないらしい。何年か前の川柳欄に〈熟れ柿の少しも減らず少子国〉と載っていた。これでは「木守り柿」の風習も意味をなさない
哺育笔者成长的乡村也到处生长着柿子树,常常用竹竿将其揪下食用。现在已看不到此风此景了。数年之前的川柳栏目里曾经刊登过这么一首诗歌,〈秋风瑟瑟柿成熟,红红彤彤挂枝头,不见孩童忙摘食,少子国度令人愁〉。这样一来所谓“护树柿”的风俗也就构不成词意了。
取り尽くさず、いくつか木に残す実をそう呼んだ。来年もよく実るように、お守りとして、あるいは鳥のために残しておくと聞かされた。葉の散った枝にぶら下がる光景を、懐かしく思い出す方もおいでだろう
曾几何时,用来称呼那些摘取不尽遗留树上的残果。听说,有祈盼保佑来年好收成的意思,抑或是为了留下给小鸟当食饵。一个个垂挂在枯叶散尽光秃秃的枝头上,此情此景想必会诱发有些人对故乡的怀念。
〈ふるさとを捨つる勿れと柿赤し〉山崎みのる。この国の秋景色にしみじみ似合う柿を、京都生まれの名料理人だった辻嘉一(かいち)さんが「国果」と言っていた。なるほどと思ったものだが、近頃は年若い世代の人気がいま一つなのだという
〈山清水秀故乡美,不离不弃心相随,又到柿红满枝头,不惧寒霜朔风吹〉山崎实创作。柿子与家乡深秋景色特别协调般配,京都出生的著名料理人辻嘉一先生甚至还称之为“国果”。细细想来还真是如此,不过,近年来据说在年轻一代中的人气却是差了那么一点。
皮をむきにくいためらしい。昨今はミカンの皮むきも面倒がられると聞く。日本人の手はいつしか怠け癖がついたようだ。丸ごと口に入れて腹に収まるイチゴや種なしブドウが今は人気者である
好像是因为果皮难剥的关系。听说现如今就连桔子都遭嫌弃剥皮麻烦。也不知道是从什么时候开始日本人的手沾上了懒惰的毛病。能一口一个吃进肚里的草莓及无籽葡萄当前最受青睐。
暦は立冬を過ぎて、季節は晩秋。いつぞや小欄で冬枯れに向かう11月のイメージを「いささか不遇」と書いたら、霜月擁護のお便りをずいぶん頂いた。冷雨のあとには小春日和がめぐって、そして、ふるさとの柿はいよいよ赤い。
历本上立冬已过,可季节却仍属晚秋。不知何时敝栏目将日渐寒冷凋零的11月形象称之为“境遇欠佳”,没想到收到了好多霜月拥戴者的来信驳斥。诸如,冷雨之后常受小阳春的眷顾呀,另外,家乡的柿子日红一日分外喜人。