夕顔の巻
(ああ、あなた。生き返っておくれ。悲しい目にあわさないで)
源氏十七歳のことです。乳母の病気見舞いにでかけたところ、隣に粗末な垣根の家がありました。青々とした蔓草に白い花が笑いかけるように咲いています。何という花だろうとつぶやくと、「夕顔と申します。こんなみすぼらしい垣根に咲くのでございます」と随身が説明します。一枝折らせようとすると、その家から童女が出てきて、これに花を載せてはと、扇を差し出しました。扇には、「心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花(当て推量ですが、源氏の君かと存じます。白露の光に美しい夕顔の花、光り輝く夕方のお顔は)」と書かれています。気品があり奥ゆかしい歌です。気になった源氏は、どんな人が住んでいるのか、惟光に調べさせました。若い女性がいるらしいが、どこの誰かはわからないとのことです。源氏は、その女君の元に通えるよう惟光に取り計らわせました。
女君の身の上もわからないまま、そして源氏は覆面までして身分を隠し、訪ねるようになりました。女君は、不安げながら、とても素直で、若くても男を知らないというふうでもありません。内気そうな風情が夕顔の花のようで、源氏には、たまらなく恋しく思えたのです。
八月十五日の夜、源氏は女君の家で明かしました。満月の光りが家の隙間から漏れてくるのも、朝方に隣近所の声が聞こえてくるのも、源氏には珍しいものでした。気取った女なら恥ずかしがるところでしょうが、女君は気にする風もなく、おおらかでした。体つきは細く、もの言う様はいじらしく、ただただいとしく思われます。
近くの山荘に連れ出しました。たいそう荒れていて、木立も気味悪く繁っています。それでも、添い臥して互いの顔を見交わし、女君が打ちとけてゆく様子は、とてもかわいいものです。源氏はもう隠すこともないと、覆面をとり、「いつまでもお名前を教えて下さらないのが恨めしく、顔を見せしまいと思っていたのですが。あなたはいったい??????」と尋ねますが、女君はやはり身元を明かしません。しかし、一日中そばに寄り添って、何かひどく恐そうにしている様子が、あどけなくいじらしくてたまりません。
宵が過ぎて、少しまどろんだ頃、枕元に美しい女が坐って、「慕っている私を放って、こんな女を連れてくるとは、恨めしゅうございます」と女君を引き起こそうとします。はっとして源氏が目を覚ますと、日も消えていました。ぞっとして、太刀を抜き、魔除けのためそこに置き、右近を起こしなされます。こわがって来る右近に、「宿直を起こして、紙燭をともして参れと言へ」源氏が命令しますと、「とても行けません。暗くて」「ああ、子供っぽい」源氏が笑って手を叩くと、山彦のこだまがとても気味悪く響きます。誰も参りません。女君は、ひどくおびえて、正気を失ったかのようでした。「なんでもむやみに恐がるご性分ですから、どんなお気持でいらっしゃることか」と右近が申します。とても弱々しくて、昼も空ばかりを見ていた、かわいそうにと源氏は思い、「私が人を起こそう。手を叩くと、山彦の答えがうるさい。お前はここに、しばらく側に」と右近を引き寄せて、戸を押し開けると、廊下の火も消えていました。
風が少し吹いていて、人気も少なく、お付きの者も皆、寝ています。お呼びになると、山荘の子が起きてきたので、「紙燭をつけて参れ。随身には、弓の弦を鳴らして絶えず大声を出せ、と命じよ。人気のない所で気を許して寝るやつがあるか。惟光が来ていたようだが」と尋ねますと、「お控えしていましたが、ご命令もなく、朝方お迎えに参ると申して帰ってしまいました」と申します。彼は警備の武士なので、弓の弦を慣れたかんじで鳴らして、「火の用心」と言いながら、向こうへ行きました。部屋へもどって探ってみると、女君はあのまま臥していて、右近は側にうつぶしていました。「どうしたことだ。ああ何という恐がりようだ。荒れ果てた所では、狐などが人を脅かそうとして、気味悪く思わせるのだろう。私がいるから、そんなものにはおどされないぞ」と、右近を起こします。「とても気分が悪うございますので、うつ伏せになっておりました。こちらこそ、お苦しくていらっしゃいましょう」と女君のことを心配するので、「そうだ。どうしてこんなに」と言って、探ると息もしていません。揺すってみても、ぐったりとして、気を失っている様子なので、ひどく子供っぽい方だらか物の怪にとりつかれたのか、と途方にくれました。
紙燭が来ました。寄せて、ご覧になると、枕元に、夢で見た姿の女がぼんやり見えて、さっと消えてしまいました。昔物語などでこんなことを聞くが、と源氏は不気味でしたが、女君がどうかと思う気持が先立ち、身を顧みるゆとりもなく、寄り添って、「これこれ」と揺すってみましたが、身体は冷たくなっていて、息もすでに絶え果てていました。どうしようもありません。どうしたらいいかと相談できる人もいません。源氏は、あのように強がりなさいましたが、まだお若いことですから、むなしく死んでしまった女君をご覧になると、やるせなくて、強く抱きしめ、「ああ、あなた。生き返っておくれ。悲しい目にあわさないで」とおっしゃっても、身体はすっかり冷たくなっていますので、だんだん気味悪く感じられてきました。
こうして、十七歳の源氏は初めて身をもって、いとしい女性の死を体験したのでした。