1级読解の練習(28)
ぼくは「ふつう」にあこがれている。なんとかして、ふつうになりたいと思っている。
だから、「ひねった見方をしますね」なんて言われると、相手はホメてくれたつもりでも、
①とても悲しい。ま、力が足りないから、そう言われても仕方がないが、これでもぼくとして
は、「ふつうの見方」をいつも心がけているのだ。
こう言うと、「②それなら私は大丈夫だ」と言う人が必ず現われる。[だって私はふつうの人
間だもん」と、その人は言う。が、ジョーダンではない。世の中に、そうカンタンにふつうの人がいたら、タイヘンである。だいたい、自分のことを「ふつうの人間だ」なんて思っているだけでも、ぼくに言わせれば、かなり変わった人である。③「ふつうの人」にいちばん近いのは、たぶん赤ん坊である。赤ん坊のモノの見方や感じ方は、まっすぐである。透明である。が、物心がつき、親があれこれ構いはじめると、まっすぐだった。段々曲がっていくのだ。大人になっていく。透明だった感覚に、いろんな色がついてくる。で、どんどんふつうじゃない人になっていくのだ。大人になって、なお「ふつうの人」でいつづけられる人というのは、よほど
えらい人であって、ぼくの知る限りでは、小説や芝居のなかにしか、そういう人はいない。
「夕鶴」のつうなんかは、その代表的な人だと思う。
そんなわけだから、ぼくがいくらがんばったところで、④ふつうの人になれるとは思っていない。自分でも気づかないうちに、自分でも気づかない色めがねを、ぼくもいっぱいかけて
しまっている。「パリ」というと「セーヌ河」、「女の仕事」といネと「炊事洗濯」なんてすぐに思ってしまうのも、その色めがねのせいである。つまり大切な想像力につまらないタガが二重三重にかけられてしまっているのだ。
(天野祐吉「見える見える」筑摩書房による)
(注1)赤ん坊:赤ちゃん
(注2)物心:世の中の物事を理解する心
(注3)「夕鶴」のつう:「夕鶴」は小説、つうは「夕鶴」の主人公
(注4)タガをかける:枠を設定する
「問1】①「とても悲しい」とあるが、なぜ悲しいのか。
1 ふつうの見方を心がけているのに、ひねった見方と思われたから
2 ふつうの人なのに、変わった人に見られてしまったから
3 ひねった見方をしたのに、力が足りなかったから
4 ひねった見方をして相手をホメたのに、わかってくれなかったから
【問2】②「それなら私は大丈夫だ」とあるが、筆者はどんな人がこう言うと思っているか。
1 ふつうの人
2 えらい人
3 代表的な人
4 変わった人
【問3】③「ふつうの人」とあるが、それはどんな人か。
1 自分のことを「ふつうの人間」だと思っている人
2 赤ん坊のようにまだ一人では何もできない人
3 まっすぐな心を持ちつづけている人
4 ひねった見方とふつうの見方の両方ができる人
【問4】④「ふつうの人になれるとは思っていない」とあるが、筆者はなぜそう思っているか。
1 大切な想像力がなくなってしまっているから
2 透明な感覚に色がついてしまっているから
3 小説や芝居の仕事をしていないから
4 親が変わったことをどんどん教えてしまっているから