A“わかりますか.”
B“わかりますか?”
日本語では普通,Aのように表記する.しかし最近ではBのように書く人も増えてきた.
疑問符は,他の多くの符号とともに,明治以後,欧米語の影響を受けて,日本語の表記に加えられるようになった.それまでの日本語には,“?”も“!”もなかったし,“。”(句点)と“、”(読点)の区別もなかったのである.“わかりますか”の“か”は疑問を表す終助詞だから,“か”で充分ニ疑問の意が表現され,しかも,そこで文が終わることがわかる.そのため“?”は必要としなかったのである.
ただし,話し言葉では,疑問の場合でも“わかる”“わかります”などという言い方をすることがある.その場合,イントネーション(抑揚)は文末が上昇調になる.したがって,小説や戯曲の会話部分では,肯定文と混同しないように“わかる?”“わかります?”などと表記した方がよいようだ.つまり,“わかる?”の“?”は,疑問の終助詞“か”の代行をするとともに,より具体的には,上昇調のシントネーションを示す符号になる.例えば,次のように表記することによって,二人の会話(質問と答え)であることが明確になるし,声に出した場合のイントネーションの違いも表せるだろう.
読点も,重要な符号である.読点のはたらきはいくつかあるが,基本的には<きることによって意味のまとまりをつけ,文の構造を指定する>という役割を果たす.
C渡辺刑事は血を流しながら逃げる犯人を追いかけた.
D渡辺刑事は血を流しながら,逃げる犯人を追いかけた.
E渡辺刑事は,血を流しながら逃げる犯人を追いかけた.
右のCは,血を流しているのが“渡辺刑事”七日“犯人”なのか,どちらにでも解釈できる.書き手としては当然どちらかの意味で表現したつもりだろうが,読み手にとっては意味の不明確な文になる.これを,DまたはEのように読点を打つと,それぞれの意味がはっきりするだろう.
このように文の構造を示す働きをする読点を“理論的読点”ともいう.ところが,読点の中には,書き手の個性の現れと見られるものもかなりある.例えば,幸田文の“父”とという作品に収められた“菅野の記”の末尾は,次のようになっている.
F父は死んで,しまった.
“しまう”は完了の意を示す補助動詞であるから,上にある本動詞と一体になってはたらく.したがって,“父は,死んでしまった”と書くのが普通である.Fの表記は,“終わった”を強調したものであり,幸田文は,“死んで,終わった”と読点を打つことによって,父の死を自分の心に刻み込む,という思いを表現したのであろう.このような読点を“心理的読点”という.
もう一つ例を示すと,次の文はどうだろうか.
G母親はさびしそうに帰っていく娘を見送っていた.
“さびしそうに”が母親の様子か娘の様子か,よく分からない.従ってこれも,前のDEの場合と同様に.
H母親はさびしそうに,帰っていく娘を見送っていた.
I母親は,さびしそうに帰っていく娘を見送っていた.
のようにすれば,いちおう係り受けについては誤解がなくなるだろう.しかし,Hはそれでも,なんとなく落着かない表現である.これを例えば,
J母親は,帰っていく娘をさびしそうに見送っていた.
あるいは,
K帰っていく娘を,母親はさびしそうに見送っていた.
野用にした萌芽,意味もはっきりし,読み手も読みやすいであろう.読点お打ち方で処理するだけでなく,語順を適宜変えてみるという工夫も,是非試みたい.