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鲁迅《阿Q正传》(日汉对照)(四)

ところがこの怒目(どもく)主義を採用してから、未荘のひま人はいよいよ附け上がって彼を嬲(なぶ)り物にした。ちょっと彼の顔を見ると彼等はわざとおッたまげて


「おや、明るくなって来たよ」


阿Qはいつもの通り目を怒らして睨むと、彼等は一向平気で


「と思ったら、空気ランプがここにある」


アハハハハハと皆は一緒になって笑った。阿Qは仕方なしに他の復讎の話をして


「てめえ達は、やっぱり相手にならねえ」


この時こそ、彼の頭の上には一種高尚なる光栄ある禿があるのだ。ふだんの斑(まだ)ら禿とは違う。だが前にも言ったとおり阿Qは見識がある。彼はすぐに規則違犯を感づいて、もうその先きは言わない。


谁知道阿Q采用怒目主义之后,未庄的闲人们便愈喜欢玩笑他。一见面,他们便假作吃惊的说:


“哙,亮起来了。”


阿Q照例的发了怒,他怒目而视了。


“原来有保险灯在这里!”他们并不怕。


阿Q没有法,只得另外想出报复的话来:


“你还不配……”这时候,又仿佛在他头上的是一种高尚的光容的癞头疮,并非平常的癞头疮了;但上文说过,阿Q是有见识的,他立刻知道和“犯忌”有点抵触,便不再往底下说。


閑人(ひまじん)達はまだやめないで彼をあしらっていると、遂にに打ち合いになる。阿Qは形式上負かされて黄いろい辮子(べんつ)を引張られ、壁に対して四つ五つ鉢合せを頂戴(ちょうだい)し、閑人はようやく胸をすかして勝ち慢(ほこ)って立去る。


阿Qはしばらく佇んでいたが、心の中(うち)で思った。「[#「「」は底本では欠落]乃公はつまり子供に打たれたんだ。今の世の中は全く成っていない……」そこで彼も満足し勝ち慢(ほこ)って立去る。


阿Qは最初この事を心の中(うち)で思っていたが、遂にはいつも口へ出して言った。だから阿Qとふざける者は、彼に精神上の勝利法があることをほとんど皆知ってしまった。そこで今度彼の黄いろい辮子を引掴(ひっつか)む機会が来るとその人はまず彼に言った。


「阿Q、これでも子供が親爺(おやじ)を打つのか。さあどうだ。人が畜生を打つんだぞ。自分で言え、人が畜生を打つと」


阿Qは自分の辮子で自分の両手を縛られながら、頭を歪めて言った。


「虫ケラを打つを言えばいいだろう。わしは虫ケラだ。――まだ放さないのか」


闲人还不完,只撩他,于是终而至于打。阿Q在形式上打败了,被人揪住黄辫子,在壁上碰了四五个响头,闲人这才心满意足的得胜的走了,阿Q站了一刻,心里想,“我总算被儿子打了,现在的世界真不像样……”于是也心满意足的得胜的走了。


阿Q想在心里的,后来每每说出口来,所以凡是和阿Q玩笑的人们,几乎全知道他有这一种精神上的胜利法,此后每逢揪住他黄辫子的时候,人就先一着对他说:


“阿Q,这不是儿子打老子,是人打畜生。自己说:人打畜生!”


阿Q两只手都捏住了自己的辫根,歪着头,说道:


“打虫豸,好不好?我是虫豸——还不放么?”


だが虫ケラと言っても閑人は決して放さなかった。いつもの通り、ごく近くのどこかの壁に彼の頭を五つ六つぶっつけて、そこで初めてせいせいして勝ち慢(ほこ)って立去る。彼はそう思った。今度こそ阿Qは凹垂(へこた)れたと。


ところが十秒もたたないうちに阿Qも満足して勝ち慢(ほこ)って立去る。阿Qは悟った。乃公は自(みずか)ら軽んじ自ら賤(いや)しむことの出来る第一の人間だ。そういうことが解らない者は別として、その外の者に対しては「第一」だ。状元(じょうげん)もまた第一人じゃないか。「人を何だと思っていやがるんだえ」


但虽然是虫豸,闲人也并不放,仍旧在就近什么地方给他碰了五六个响头,这才心满意足的得胜的走了,他以为阿Q这回可遭了瘟。然而不到十秒钟,阿Q也心满意足的得胜的走了,他觉得他是第一个能够自轻自贱的人,除了“自轻自贱”不算外,余下的就是“第一个”。状元不也是“第一个” 么?“你算是什么东西”呢!?


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