今、私は黒龍江省に滞在して、高校生に日本語の会話や作文を指導しています。 ここで生徒が書いた作文をたくさん読んでいるうちに、日本の高校生が書く作文と中国の高校生が書く作文の間に大きな違いがあることに気がつきました。そこで、今回は「作文指導に見る日本と中国の違い」というテーマでお話したいと思います。
中国の高校生の書く作文を読んでいると、生徒同士が相談しながら作文を書いたのではないかと思うほど、内容も表現もよく似た作文がたくさんあることに気がつきます。例えば先週、「私が尊敬している人」という作文を書かせました。その作文の60%は尊敬する人に親を挙げ、35%は教師を挙げていました。「親を尊敬しています」と書く人が多いのは日本の高校生でも同じです。ところが、中国の生徒の作文のほとんどは「親は私を生んでくれた人です」「苦労して私を育ててくれました」「だから尊敬しています」と書いてあるだけなのです。
このような作文は、日本ではまったく評価されません。たいていの親は子供を育てるのに苦労しているのです。だから、子供が、自分を育ててくれたことで親に感謝や尊敬の気持ちを持つことは自然なことです。そして、それは全人類に共通するごく一般的なことであって、「私」が親を尊敬している特別な理由とは言えません。この作文は「私が尊敬する人」という題名ですから、作文の内容も「私」の実体験を書かなければ評価されないのです。日本人の生徒がこのような作文を書く時には、「私が」親を尊敬する理由を「具体的に」書きます。つまり、「このようなことがあった。その時親はこのようなことをした。それから私は親を尊敬するようになった」という具体的な事例を書かなければ、日本ではいい作文とは認められません。
つまり、日本の作文指導では、まず、個人的な経験や体験を書き、それに対して自分がどのように感じたのか、どのように考えたのか、ということを書くことが重要だとされているのです。したがって、その内容は一人ひとりで異なったものとなります。どんなに文の表現がうまくても、それが「その人」が創作した文でなければ評価されないのです。そのため、日本では、「文章は下手だが、内容はすばらしい」という評価を受ける作文があります。それに対し、中国の書店には「優秀作文集」がたくさん売られていて、みんなその作文の表現をまねて文を書きます。中国の作文指導では、表現の巧みさが評価の対象となるからです。しかし、日本の書店には、ほとんどそのような本がありません。人の文のまねではなく、自分自身の文を書け、というのが、日本の作文指導だからです。
このような日本の作文指導にも、いろいろな欠点があります。「名文」を参考にせず、自分だけで書くので、文の上手な人と下手な人の差が大きくなり、中には大学を卒業したのに、驚くほど稚拙な文章しか書けない人もいます。したがって、私は中国のような「表現を学ぶ作文指導」を日本も一部取り入れるべきではないかと考えています。しかし、同時に、中国の作文指導にも「個性を重視する視点が足りない」という欠点があると思います。特に「素質教育」という考え方から言うと、中国も日本の作文指導を取り入れるべきでしょう。少なくとも、日本語教育の一部として作文を書かせる時には、「個性的な内容の文章を書くこと」を指導すべきだと思います。
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