かしこまった書ではない。いわば普段使いの字ながら、伊集院静さんのなど、男でも惚れそうな色気がある。ひるがえってパソコンに丸投げの拙稿を思う。「愛」と書くところをツータッチでai、「死」をsiと打てば、重みも実感も薄れる心地がする。
其实都并不是郑重书写的字体,而是平时使用的、随意的字体。即使这样,诸如伊集院静先生等人的笔迹,有一种连男性也爱不释手的魅力。回过头来我又想到了完全依靠电脑的本人拙稿,当要写“爱”字时,只要敲击两下a i,“死”字敲打s i,文字本身意味传递的分量与实际感受变得淡而乏味。
「書く」の由来は「掻(か)く」と同じで、石や木を引っかいて字を刻んだためという。それを踏まえてだろう、書家の石川九楊さんが述べていた。たとえば「殺す」と書くには相当な(心の)エネルギーが要るものだ、と
“书写(kaku)”一词的字源与“划、搅(kaku)”一词相同,指的是在石头及木头上划上印记然后再刻成字。书法家石川九杨先生认为这恐怕是“书写(kaku)”一词的由来。例如,书写“杀戮(korosu)”一词就需要相当的(心理)能量一样。
その通りと思う。だが、そうした言葉もキーボードだと楽に打てる。心が字面に追いつかないまま、言葉ばかりがインフレになり、安く流通しがちだ。激しい言葉に限らない。絆とkizunaは似て非なる字ではないか――などと、展示された万年筆を見ながら考えた。
我赞同这一观点。然而,这些词汇到了键盘上,只需动动手指敲打一番。心情不会受到字面意思的影响,文章只是词汇的堆积、复制而已。这种情况并不只限于那些词义严厉凝重的词汇,诸如,纽带(絆)和kizuna,意思一样,但写法不同含义也会有微妙的差异。看着展示的钢笔,我陷入沉思。
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