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春之断想
山里春天的气息仍然极为淡薄。向阳处某些地方的紫罗兰虽已开花,冬天的气息依然深深地渗透在泥土之中。然而,已有不少迹象报道着春天已经来临。我从山上下到山脚,一片田野近在眼前,冬天里曾是黄土色或肤色的麦天已呈现出相当的绿色。麦芽到底长出了多长了呢?我急步走到田边一看,发现在像是在被白霜托起的蛋糕似的、也有些地方像是黄豆面似的泥土上麦芽已经探出老长的身子来了。游目骋怀于熟谙的草木新芽固然是日后游山踏青的一大乐趣,然而眼下既有对春天相当敏感的东西——在我看来似乎稍稍性急了一些的东西,也有一些景物毫不走样地保持着自去岁秋末起就为对付接踵而至的严冬而摆出的架势。我并无所谓秋日落寞、冬日悲凉、春日欢乐的成见,但总觉得新芽的生长会给人一种新的感动,并且,每年屡试不爽。
串田 孙一 《四季随想》
原文:
春の断想
まだ山の春は極く浅い。日だまりには菫の花の咲いているのを見ることもあるが、土には冬の匂いがまだかなり強く滲み込んでいる。けれども春の近いことを知らせているものはいくらもある。山の麓近くまで下って来て、そろそろ畑が出て来るころ、冬の間は黄土色や肌色だった麦畑が、大分緑がかって来た。麦の芽はいったいどの位、土の上に出て来たのかと思って、せっせと下りて畑へ行ってみると、霜に持ち上げられたカステラのような、また場所によっては黄粉のような土の上にもかなり伸びているのである。なじみ深い木や草の芽を見てまわるのもこれからの山歩きの楽しみであるが、春の気配に敏感なもの、私から見ると、すこしせっかちすぎるのではないかとさえ思われるものがあるかと思えば、秋の末からの、これから当分寒さの厳しい季節が続くぞという時の身構えを、そのまま少しも崩さずにいるのもある。私は、秋が寂しい、冬は悲しい、春は楽しいと言うようなことはないけれど、芽の伸びて行こうという姿には毎年新しい感動をある。それに教えられることが毎年必ずある。
串田 孫一 「季節の断想」