在九天八宿的旅程中,重要的交通工具是大型观光巴士。我们坐在巴士封闭的空间里俯视中国的日常生活。陌生的城市景观、和某个熟人长得相似的脸庞、时而跳进我的眼帘时而又消失了。就好像从电视的大屏幕上欣赏异国的风景,又好像玻璃窗的外面完全是另一个世界:既没有现实感也没有危机感的想像空间。
从玻璃窗外面,时常也有中国人将视线投射过来,当和他们的视线相撞时,才使我醒悟过来。这让我想起自己决不是来娱乐的,玻璃窗的那面和这面不可能有任何的障碍。对,本应该是这样的,但我心中所抹不去的那种别扭的感觉又是什么呢?
那种别扭的感觉也有过消失的瞬间。坐着出租车向要去访问的中国家庭行驶的时候,在自行车、汽车尾气还有喇叭声混杂的、充满生机的上海街道上行驶的时候,当我的视线与中国人的视线同样高的时候,当我的视线与中国人的视线同样高的时候,我才第一次感到我真正地触摸到了什么。现在回想起来,盘据在我心中深处的日本人的优越感,以及从高大的巴士上俯视风景的姿态,使我没能够正视中国的真正风貌。同时,我对自己的这种姿态感到抵触,所以才有了那种别扭的感觉吧。
远离日常生活的梦一般的九天,在这九天里,中国人的视线和我那没有根据的优越感而带来的别扭的感觉,现在还能活生生地回想起来。 |
八泊九日の旅の間、私たちの行動の中で大きな存在だったのは大型観光バスであった。あのバスの閉ざされた空間から、中国の日常を見下ろす。すると見慣れない雰囲気の町並みやら、知り合いの誰かと似たような顔が、目に飛び込んできたり、消えていったりする。それはまるでテレビの大画面から異国の風景を楽しむような、私とは違う世界がガラスの向こうに在るのだと思わせるような、現実感も危機感もない娯楽みたいなものだった。
しかし、ガラスの向こうからも度々中国の人々の視線がこちら側に向かって入り込んでくる。彼らと目があうとふいに私は自分を取り戻していくのだった。決して娯楽のために来たわけではない、ガラスの向こうもこちら側も何の隔たりもあるはずはない、と。そう、そのはずなのだ。けれど心にどこか拭いきれないあの違和感は何だろう?
そう言えば、その違和感を感じなかった瞬間があった。家庭訪問先に向かうタクシーの車中であった。いつものバスからの風景とは違い、チャリと排ガスとクラクションとの混沌の中、実に生き生きとした上海の街を走っていた時。中国の人々の目線と同じ高さでやっと何かに触れた気がした。
今考えると、心のどこかに巣食う日本人の優越感と背の高いバスから風景を見下ろす姿勢がどこかリンクして、中国の姿を真正面から捉えられない自分がいたのではないか。同時にそんな自分に抵抗する心もあって、あの違和感が生まれたのかもしれない。
日常とは切り離された夢のような9日間。その中で、中国人の視線と根拠のない優越感が生んだ違和感だけが、今も現実味を伴って思い出される。 |