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2004年10月13日の「天声人語」

作者:ebitama 文章来源:贯通论坛 点击数 更新时间:2004-11-5 10:29:00 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

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 「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」。室生犀星の若き日の作品「抒情小曲集」の有名な詩の一節である。

“故乡啊,身在远方思念你,悲歌低吟怀念你。”这是室生犀星的早期作品《抒情小曲集》中的有名的词句的一节。

 東京で詩人になろうという夢が破れ、一時金沢に帰郷した頃の心情が表れている。そしてこう続く。「よしや/うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても/帰るところにあるまじや」

它表达了诗人室生犀星想在东京成为一名诗人的理想破灭之后,暂时回到金泽的故乡时的心情。他接着写道“纵然是,异地落魄去行乞,故乡有路亦不归。”

 この詩が思い浮かんだのは、遣唐使として海を渡り、かの地で没した人の墓誌が発見されたとの記事に、「異土」と「故郷」という文字があったからだ。新華社通信によれば、墓誌の末尾は、こうだった。「形既埋於異土、魂庶帰於故郷」。専門家の訳では「体はこの地に埋葬されたが、魂は故郷に帰るにちがいない」となるそうだ。

这诗使我联想到,作为遣唐使横渡沧海,死在异国他乡的人(井真成)之墓志最近被发现的报道,因为在墓志上有“异土”与“故乡”这样的文字。据新华社通信报道,在墓志的末尾是这样记载的。“形既埋于异土,魂庶归于故乡。”据专家翻译其意为“其身虽葬于此地,但其魂无疑已回归故乡。”

 阿倍仲麻呂と一緒に派遣され、朝廷で抜きんでた活躍をしたが36歳で急死、皇帝が特別に埋葬――。墓誌がつづった通りの生涯があったとするならば、まぶしくも悲しく、劇的な一生ということになるのだろう。

(井真成)与阿倍仲麻吕一起作为遣唐使派往中国,在中国朝廷中是一位出类拔萃的活跃人物,但他却36岁就英年早逝,被皇帝授于特别的葬礼…。要是他的生涯如墓志所写的那样的话,那么他的一生就是既辉煌又悲伤、是充满了戏剧性的一生。

「其(か)の大唐国(もろこしのくに)は、法式(のり)備(そなわ)り定(さだま)れる珍(たから)の国なり。常に達(かよ)うべし」。遣隋使の学問僧や学問生として渡航し、隋の滅亡と唐の誕生を目の当たりにして帰国した人たちが、こう推古の朝廷に進言して、遣唐使は始まっている(『最後の遣唐使』講談社)。

“大唐国是一个难得的法规齐备纪律严明的国度,应该不断地派人去学习”。作为遣隋使的学者僧人和留学生而航海出国,并且亲眼目睹了隋朝的灭亡和唐朝的兴起的回国人员是这样向当时的推古天皇建议的,于是就开始有了遣唐使。(『最后的遣唐使』讲谈社)

 世界の中心の一つだった唐の都で抜群の働きを認められたとするならば、異土も、故郷も、その意味合いは、犀星の場合とは違っていたはずである。しかし、人生という生やさしくない航海にあっては、この二つの言葉は、時代や境遇を超えて通じるような、重みと切なさを備えている。

在曾作为世界的中心之一的唐朝之都,若是承认其(井真成)工作能力是无可挑剔的话,那么不同的土地也好,不同的故乡也罢,其意义肯定与室生犀星的情况不同。但是,在人生这种艰难的航海中,“故乡”这二个词似乎具有超越时代和境遇分量。

相关链接

室生犀星

  室生犀星(1889—1962),诗人、小说家。1912年开始在杂志《星》上发表诗作。1918年出版诗集《抒情小曲集》、《爱的诗集》,1919年发表《第二爱的诗集》。同年开始小说创作后仍发表了《忘春诗集》等。诗人早期的作品大多反映了内心的纯情与凡事忍让这一家庭教诲的冲突。通过对自己放纵生活的描写,表达内心的孤独感伤,给人以纯真野性之感。从《爱的诗集》起,他的诗风为之一变,诗作大多从人道主义的观点出发,追求自然人的纯朴与纯真。

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室生犀星(むろう さいせい)


  明治22(1889)8/1~昭和37(1962)3/26   詩人 小説家

 石川県金沢裏千日町に生まれる。本名照道。俳号は魚眠洞。

 旧加賀藩の足軽組頭を務めた父とその家の女中であった母の間に生まれ、不義の子として生後一週間ほどで養子に出される。継母は雨宝院という寺の内縁の妻であった赤井ハツという女性。この寺には他にも兄、真道や姉、おてい、犀星の後より貰われてきた妹、おきんなど数人の貰い子がいた。

 気性の荒い継母のもと、血の繋がらぬ兄弟と時には折檻に耐え乍ら少年時代を過ごすことになる。このことは後に著する自伝的小説『弄獅子(らぬ きい)』や『幼年時代』などに詳しい。

 母の不注意のため小学校には半年遅れで入学。劣等生で反抗的、喧嘩っ早いと当時の級友が語っている。9才の時に実父が73才で死去。実母は家を追われ、以後の消息は不明となる。

 後年「作家というものはいくら書いても自伝だけは書ききれないほど材料があるらしい」と述べている。

 7才の時雨宝院の嗣子となるが貧窮のため高等小学校を中退し、12才で兄、真道の勤める金沢地方裁判所の給仕となり7年間働く。端的に言えば彼の学歴は小学校までであり、以後は全て独学である。昭和初期までの人物で、小学校卒業で学歴を終えた人物はそう少なくもないし、現在でも学歴と才能は全くの別 物であるが、文学というごまかしの効かない世界で大成するには並々ならぬ努力と天性の才能があってこそだと思われる。

 明治40年7月、犀星18才の時に『新声』に投稿した『さくら石斑魚にそへて』が児玉 花外に認められ、文学で身を立てようと思い始める。42年9月、裁判所勤めを辞して地方紙の記者を転々とし、44年22才で上京、貧窮と放浪の生活をしながら詩作に励む。

 俳諧は初め藤井紫影や大谷繞石に学び、更に松下紫人、北川洗耳洞に教えを請う。北声会に入会して新傾向運動に参加し、注目される。

 20代半ば、萩原朔太郎を知り大正3年に『卓上噴水』(全3号)、次いで大正5年『感情』(全32号)を創刊。『感情』には後に山村暮鳥なども加わることになる。

 大正7年1月、処女集『愛の詩集』次いで9月『叙情小曲集』を自費出版というかたちで発表。破格を多用する独特の文語叙情詩が評判を呼び、朔太郎の『純情小曲集』と好一対と評され、「日本語の詩を読む有り難さを感じる」と絶賛され天才の名を恣にする。

 同年、浅川とみ子と結婚。後年生まれる長女、室生朝子は随筆家となり父犀星の伝記なども著する。

 後にドストエフスキーやトルストイなどの影響を受け、文語詩から感情を直接吐露できる口語自由詩に転向をはかることになる。

 小説は芥川や谷崎、佐藤春夫などに深く感化された。大正8年『性に眼覚める頃』9年『あにいもうと』『戦死』、昭和31年から翌32年にかけて発表した『杏っ子』、昭和33年~34年の『かげろふの日記異文』など。

 関東大震災で一時金沢に帰郷していたが、再上京後は芭蕉研究に没頭し、昭和3年『芭蕉集記』を発表。東洋的枯淡へ傾倒する。因に俳句は『魚眠洞発句集』として纏められている。

 他著作として随筆『女ひと』『我が愛する詩人の伝記』など。

 72才、肺癌で死去。墓は金沢市野田山墓地。

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阿倍仲麻呂

阿倍仲麻呂(公元698770年),中國名字又稱朝衡、晁衡,出生於日本大和國(今奈良)一位官員家庭。自幼聰明好學,才華橫溢,被選拔為遣唐留學生,71719歲時,隨第九次日本遣唐使來華。在唐都長安經過近十年苦讀鑽研,727年參加中國科舉考試,以優異成績考中進士並出仕唐朝。由於他德才兼備,詩文俱佳,受到唐玄宗賞識,任命為祕書監等官職,經常在御前侍奉。

阿倍仲麻呂在唐朝做官40多年,並與李白、王維、魏萬等中國詩人學者交往,結下深厚友誼。753年,他因思念故鄉,準備隨日本遣唐使回國,臨行吟誦:「翹首望東天,神馳奈良邊,三笠山頂上,想又皎月圓。」這就是日本古代和歌中有名的《三笠山之歌》。唐朝詩人王維聽說他要回國,寫了充滿惜別之情的《送祕書晁監還日本並序》

後來他乘坐的船在海上遭遇風暴,大詩人李白以為他已遇難,悲痛地寫下了《哭晁卿衡》的名作:「日本晁卿辭帝都,征帆一片繞蓬壺。明月不歸沉碧海,白雲愁色滿蒼梧。」實際上船隻漂流到了越南,阿倍仲麻呂僥倖生還,又回到長安。

晚年他曾任唐朝鎮南都護、安南節度使等職,770年在長安逝世,最後埋骨唐土,被中日史籍引為美談。

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唐皇室曾厚待日本“遣唐使”

《长城在线》 2004-10-12 9:10:55

在中日联合纪念日本空海弘法大师入唐1200周年之际,我省有幸征集到了一块石制唐代日本留学生墓志。

    日本留学生被授职“尚衣奉御”

    昨天下午4时许,该墓志的征集单位西北大学在陕西历史博物馆东展厅,向参加纪念空海弘法大师入唐1200周年系列活动的200多名日本贵宾和各界代表展示了这方珍贵的墓志。

    该墓志近正方形,边长约39厘米。墓志上的铭文分12行,共171字,除部分字残缺外,大多完整。
墓志记载了一位名叫井真成的日本留学生,说他风度翩翩、才华横溢、勤奋好学,但不幸在开元22年(公元734年)正月去世,终年36岁。唐玄宗曾下诏赐授其“尚衣奉御”(掌管天子衣服的职官,从五品)之职。这一官职虽然级别不高,但他属于“皇帝身边的人”,一般只有皇帝的亲信才能担任,可见唐王朝对井真成厚爱有加。专家考证,井真成应是随公元717年的第八次遣唐使团来到长安的,当时年仅19岁。与他同时来到长安的还有著名的阿倍仲麻吕等人。

    铭文上出现“国号日本”字样

    据了解,这是中国首次发现唐代日本留学生墓志,是古代中日友好交流历史的重要实物见证。铭文中说井真成“国号日本”,这也是迄今发现的日本国名的最早实物资料。据悉,“日本”二字作为国名,此前只知道最早是在8世纪出现,但具体在什么时候,无从知晓。

    又讯 纪念日本空海弘法大师入唐1200周年系列活动昨在西安举行。热情好客的西安人民用最为尊贵的仿古入城仪式,欢迎以日本日中友好协会会长平山郁夫先生为代表的日本贵宾。省委书记李建国昨晚亲切会见了平山郁夫先生一行。

    昨天下午,参加纪念活动的日本慈善家和相关机构还向陕西省文物部门捐赠了1亿日元(约700多万元人民币)用于唐代帝陵的保护

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