舞舞舞5
本当にそう思う。
僕は平均的な人間だとは言えないかもしれないが、でも変わった人間ではない。僕は僕なりにしごくまともな人間なのだ。とてもストレートだ。矢のごとくストレートだ。僕は僕としてごく必然的に、ごく自然に存在している。それはもう自明の事実なので、他人が僕という存在をどう捉えたとしても僕はそれほど気にはしない。他人が僕をどのように見なそうと、それは僕には関係のない問題だった。それは僕の問題というよりはむしろ彼らの問題なのだ。
ある種の人間は僕を実際以上に愚鈍だと考えるし、ある種の人間は僕を実際以上に計算高いと考える。でもそれはどうでもいいことだ。それに「実際以上に」という表現は、僕の捉えた僕自身の像に比べてということに過ぎないのだ。彼らにとっての僕はあるいは現実的に愚鈍であり、あるいは計算高い。それは別にどちらでもいい。たいした問題ではない。世の中には誤解というものはない。考え方の違いがあるだけだ。それが僕の考え方だ。
しかしそれとは別に、その一方で、僕の中のそのまともさに引かれる人間がいる。とても数少なくはあるけれど、でも確かに存在する。彼ら/彼女たち、と僕とは、まるで宇宙の暗い空間に浮かぶ二つの遊星のようにごく自然に引き合い、そして離れていく。彼らは僕のところにやってきて、僕と関わり、そしてある日去っていく。彼らは僕の友人になり、恋人になり、妻にもなる。ある場合には対立する存在にもなる。でもいずれにせよ、みんな僕のもとを去っていく。彼らはあきらめ、あるいは絶望し、あるいは沈黙し(蛇口をひねってももう何も出てこない)、そして去っていく。僕の部屋には二つドアがついている。一つが入り口で、一つが出口だ。互換性はない。入り口からは出られないし、出口からは入れない。それは決まっているのだ。人々は入り口から入ってきて、出口から出ていく。いろんな入り方があり、いろんな出方がある。しかしいずれにせよ、みんな出ていく。あるものは新しい可能性を試すために出ていったし、あるものは時間を節約するために出ていった。あるものは死んだ。残った人間は一人もいない。部屋の中には誰もいない。僕がいるだけだ。そして僕は彼らの不在をいつも認識している。去っていった人々を。彼らの口にした言葉や、彼らの息づかいや、彼らの口ずさんだ唄が、部屋のあちこちの隅に塵のように漂っているのが見える。
彼らが見た僕の像はおそらくかなり正確なものだったのではないかという気がする。だからこそ彼らはみんな僕のところにまっすぐやってきて、そしてやがて去っていったのだ。彼らは僕の中にまともさを認め、僕がそのまともさを維持していこうとする僕なりの誠実さーーという以外の表現を思いつけないのだーーを認めた。彼らは僕に対して何かを言おうとしたり、心を開こうとしたりした。彼らの殆どは心優しい人々だった。でも僕には彼らに何かを与えることはできなかった。もし与えることができたとしても、それだけでは足りなかった。僕はいつも彼らに出来る限りのものを与えようと努力した。できるだけのことは全部やった。僕も彼らに何かを求めようとした。でも結局は上手くいかなかった。 そして彼らは去っていった。
それはもちろん辛いことだった。
でももっと辛いのは、彼らが入ってきた時よりずっと哀し気に部屋を出ていくことだった。彼らが体の中の何かを一段階磨り減らせて出ていくことだった。僕にはそれがわかった。変な話だけれど、僕よりは彼らの方がより多く磨り減っているように見えた。どうしてだろう?何故いつも僕が残されるのだ?何故だろう?そして何故いつも僕の手の中に磨り減った誰かの影が残されているのだ?何故だろう。わからないな。
データが不足しているのだ。
だからいつも解答がでてこないのだ。
何かが欠けているのだ。
ある日仕事の打ち合わせから戻ってみると、郵便受けに絵はがきが入っていた。宇宙飛行士が宇宙服を着て月面を歩いている写真の絵はがきだった。差しだし人の名前は書いてなかったけれど、それが誰からのはがきなのかは一目で理解できた。
「もう私たちは会わないほうがいいだろうと思います」と彼女は書いていた。「私はたぶん近いうちに地球人と結婚することになると思うから」
ドアの閉まる音が聞こえる。
でーたフソクノタメ、カイトウフカノウ。トリケシきいヲオシテクダサイ。
画面が白くなる。
いつまでこんなことが続くのだろう?と僕は思った。僕はもう三十四だ。いつまでこれが続くのだ?
僕は哀しくはなかった。だってそれは明らかに僕の責任なのだ。彼女が僕のもとを離れていくのは当然のことだし、それは始めからわかっていたのだ。彼女にもわかっていたし、僕にもわかっていた。でも我々はささやかな奇跡を求めてもいたのだ。ちょっとしたきっかけで根本的な転換がやってくるかもしれないというようなことを。しかしもちろんそんなものはやってはこなかった。そして彼女は出ていった。彼女がいなくなったことで僕は寂しい気持ちになったが、それは以前にも経験したことのある寂しさだった。そして自分がその寂しさを上手くやりすごせるということもわかっていた。
僕は馴れつつあるのだ。
そう思うと僕は嫌な気持ちになった。内臓から黒い液がどっぷりと絞り出されて喉もとまで上がってくるような気がした。僕は洗面所の鏡の前に立って、これが俺自身だと思った。これがお前だ。お前が自分自身を磨り減らせてきたのだ。お前が思っているよりはずっと多くお前は磨り減ってきたんだ、と。僕の顔はいつもよりずっと汚く、ずっと老けて見えた。僕は石鹸で丁寧に顔を洗い、ローションを肌に磨り込み、それからまた手をゆっくり洗い、新しいタオルで手と顔をよく拭いた。そしてキッチンに行って缶ビールを飲みながら冷蔵庫の整理をした。萎びたトマトを捨て、ビールをきちんと並べ、容器をうつしかえ、買い物のリストを作った。
明け方に僕は一人でぼんやりと月を眺めながら、これがいつまで続くんだろうと思った。僕はやがてまたどこかで別の女にめぐりあうだろう。我々は遊星のように自然に引き合うのだ。そして我々はまたむなしく奇跡を期待し、時を食み、心を磨り減らせ、別れていくのだ。
それがいつまでつづくのだ?
彼女から月面の絵はがきが届いた一週間後に、僕は仕事で函館に行くことになった。、例によってあまり魅力的とは言いがたい仕事だったが、僕は仕事のよりごのみを出来るような立場にはなかった。それにだいたい僕のところに回ってくるどの仕事をとってみても、そこにはよりごのみをするほどの差はないのだ。幸か不幸か一般的に物事というのは端っこに行けば行くほど、その質の差が目立たなくなってくる。周波数と同じことだ。あるポイントを越してしまうと、隣接する二つの音のどちらが高いかなんて殆ど聴きわけられないし、やがては聴きわけるまでもなく何も聞こえなくなってしまう。
それはある女性誌のために函館の美味い食べ物屋を紹介するという企画だった。僕とカメラマンとで店を幾つか回り、僕が文章を書き、カメラマンがその写真を撮る。全部で五ベージ。女性誌というのはそういう記事を求めているし、誰かがそういう記事を書かなくてはならない。ごみ集めとか雪かきとかと同じことだ。だれかがやらなくてはならないのだ。好むと好まざるとにかかわらず。
僕は三年半の間、こういうタイブの文化的半端仕事をつづけていた。文化的雪かきだ。ある事情でそれまで友人と二人で経営していた事務所を辞めたあと、僕は半年ばかり殆ど
何もせずにただぼんやりと生きていた。何をする気も起きなかったのだ。その前の年の秋から冬にかけては実にいろんなことがあった。離婚した。友達が死んだ。不思議な死だった。女が何も言わずに去っていった。奇妙な人々に会い、奇妙な事件に巻き込まれた。そして全てが終わった時、僕はそれまでに経験したこともないくらい深い静寂にすっぽりと包みこまれていた。恐ろしいほどの濃密な不在感が僕の部屋の中に漂っていた。僕はその部屋の中に半年間じっと閉じこもっていた。生存に必要な最低限の買い物をすることを除けば、昼間は殆ど外に出なかった。人気のない明け方の時間に僕は街をあてもなく散歩した。人々が街に姿を見せ始めるころになると部屋に戻って眠った。そして夕方前に目を覚まして簡単な食事を作って食べ、猫にもキャット・フードをやった。食事が終わると床に座って僕の身に,起こったことを何度も何度も思い返して、整理してみた。順番を並べかえたり、そこに存在したはずの選択肢をリスト・アップしたり、自分の行動の正否について考えを巡らせたりした。それを明け方まで続けた。そしてまた外に出てあてもなく無人の街を彷徨い歩いた。
僕は半年間それを毎日毎日続けた。そう、一九七九年の一月から六月まで。僕は一冊の本も読まなかった。新聞さえ開かなかった。音楽も聞かなかった。TVも見なければ、ラジオも聞かなかった。誰とも会わなかったし、誰とも話をしなかった。酒も殆ど飲まなかった。飲みたいという気になれなかったのだ。世の中で何が起こっているのか、誰が有名になって誰が死んだのか、僕は何ひとつ知らなかった。一切の情報をかたくなに拒否して