舞舞舞4
「ときどき」と彼女は言葉を強調して言う。そして三十秒くらい間を置く。ヒューマン
・リーグの唄が終わり、知らないバンドの曲になる。「それが問題点なのよ、あなたの」と彼女は続ける。「私はあなたとふたりでこうしているのって大好きなんだけど、毎日朝から晩までずっと一緒にいたいとは思えないのよ。どういうわけか」
「うん」と僕は言う。
「あなたといると気づまりだとかそういうんじゃないのよ。ただ一緒にいるとね、時々空気がすうっと薄くなってくるような気がするのよ。まるで月にいるみたいに」
「これは小さな一歩だけれどーー」
「ねえ、これ冗談じゃないのよ」と彼女は体を起こしてぼくの顔をじっとのぞきこんだ。
「私、あなたの為に言ってるのよ。誰かあなたの為に何か言ってくれる人、他にいる?どう?そういうこと言ってくれる人、他にいる?」
「いない」と僕は正直に言う。一人もいない。
彼女はまた横になって、乳房をやさしく僕の脇腹につける。僕は手のひらで彼女の背中をそっと撫でる。
「とにかく時々、月にいるみたいに空気が薄くなるのよ、あなたと一緒にいると」
「月の空気は薄くない」と僕は指摘する。「月面には空気は全く存在しないんだ。だからーー」
「薄いのよ」と彼女は小さな声で言う。彼女が僕の発言を無視したのか、あるいは全然耳に入らなかったのかは、僕にはわからない。でも彼女の声の小ささが僕を緊張させる。どうしてかはわからないけれど、そこには僕を緊張させる何かがふくまれている。「ときどきすうっと薄くなるのよ。そして私とはぜんぜん違う空気をあなたが吸っているんだと思うの。そう認識するの」
「データが不足しているんだ」と僕は言う。
「私があなたについて何も知らないということかしら、それ?」
「僕自身も自分についてよくわかってないんだ」と僕は言う。「本当にそうなんだよ。別に哲学的な意味で言ってるんじゃない。もっと実際的な意味で言ってるんだ。全体的にデータが不足している」
「でもあなたもう三十三でしょう?」と彼女は言う。彼女は二十六だ。
「三十四」と僕は訂正する。「三十四歳と二カ月」
彼女は首を振る。そしてベッドを出て、窓のところに行き、カーテンを開ける。窓の外には高速道路が見える。道路の上には骨のように白い午前六時の月が浮かんでいる。彼女は僕のパジャマを着ている。「月に戻りなさい、君」と彼女はその月を指し示して言う。
「寒いだろう?」と僕は言う。「寒いって、月のこと?」
「違うよ。今の君のことだよ」と僕は言う。
今は二月なのだ。彼女は窓際に立って白い息を吐いている。僕がそう言うと、彼女はやっと寒さに気づいたようだった。
彼女は急いでベッドに戻る。僕は彼女を抱き締める。そのパジャマはすごくひやりとしている。彼女は鼻先を僕の首に押し什ける。その鼻先もとても冷たい。「あなたのこと好きよ」と彼女は言う。
僕は何か言おうと思うのだけれど、上手く言葉が出てこない。僕は彼女に好意を抱いている。こうしてふたりでベッドの中にいると、とても楽しく時を過ごすことができる。僕は彼女の体を温めたり、髪をそっと撫でていたりするのが好きなのだ。彼女の小さな寝息を聞いたり、朝になって彼女を会社に送りだしたり、彼女が計算したーーと僕が信じているーー電話料金の請求書を受け取ったり、僕の大きなパジャマを彼女が着ているのを見たりするのが好きなのだ。でもそういうことって、いざとなると一言で上手く表現できない。愛しているというのではもちろんないし、好きというのでもない。
何と言えばいいのだろう?
でもとにかく僕には何も言えない。言葉というものがまったく浮かんでこない。そして僕が何も言わないことで彼女が傷ついていることが感じられる。彼女はそれを僕に感じさせまいとしているのだが、でも僕には感じられる。柔らかな皮膚の上から彼女の背中の骨の形を辿りながら、僕はそれを感じるのだ。とてもはっきりと。僕らはしばらく何も言わずに抱き合って、題もわからない唄を聴いている。彼女は僕の下腹にそっと手のひらをあてる。「月世界の女の人と結婚して立派な月世界人の子供を作りなさい」と彼女は優しく言う。「それがいちばんよ」
開け放しになった窓からは月が見えた。僕は彼女を抱いたまま、その肩越しにじっと月を見ていた。時折何かひどく重い物を積んだ長距離トラックが崩壊し始めた氷山のような不吉な音を立てて高速道路を走り抜けていった。いったい何を運んでいるのだろう、と僕は思った。
「朝御飯、何がある?」と彼女は僕に尋ねる。「特に変わったものはないね。いつもとだいたい同じだよ。ハムと卵とトーストと昨日の昼に作ったポテト・サラダ、そしてコーヒー。君のためにミルクを温めてカフェ・オ・レを作る」と僕は言う。
「素敵」と彼女は言って微笑む。「ハムェッグを作って、コーヒーをいれて、トーストを焼いてくれる?」
「もちろん。喜んで」と僕は言う。
「私のいちばん好きなことって何だと思う?」
「正直言って見当がつかない」
「私がいちばん好きな事、何かというとね」と彼女は僕の目を見ながら言う。「冬の寒い朝に嫌だな、起きたくないなと思いつつ、コーヒーの香りと、ハムエッグの焼けるじゅうじゅういう匂いと、トースターの切れるパチンという音に我慢しきれずに、思い切ってさっとベッドを抜け出すことなの」
「よろしい。やってみよう」と僕は笑って言う。
僕は変わった人間なんかじゃない。