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2007年10月14日の「天声人語」

作者:bitoc 文章来源:贯通论坛 点击数 更新时间:2007-10-17 8:21:28 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

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http://www.kantsuu.com/bbs/dispbbs.asp?boardID=121&ID=155361&page=1

仁孝天皇の皇女和宮(かずのみや)が、大行列で江戸に下ったのは1861年(文久元年)初冬。翌年、15歳で徳川14代将軍家茂(いえもち)に嫁いだ。幕府の権威を保つための政略結婚だったが、和宮は同い年の若将軍と相愛の夫婦になった。

仁孝天皇之女和宫公主在浩浩荡荡的队伍簇拥下驾临江户城的时候,正是1861年(文久元年)的初冬。次年,嫁给德川第14代将军家茂为妻,时年15岁。虽然只是一桩旨在确保幕府权威的政治联姻而已,和宫公主却与同龄的年轻将军夫君举案齐眉。

 家茂は長州征伐の陣中で病没する。20歳の亡きがらは、妻がねだった西陣織と共に江戸に戻った。和宮は〈うつせみの唐織衣(からおりごろも)なにかせむ綾(あや)も錦も君ありてこそ〉と泣き崩れたという。

(天妒良缘,)家茂将军在出征常州之战中不幸病故,年仅20岁。与遗体一起回到江户城的,是(出征前夕)爱妻想要的“西阵织”。据说和宫公主(见后)痛不欲生:“思君君已不复生,绫罗锦缎何所用”。
(参考:http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kazunomiya.html

 上野の東京国立博物館で「大徳川展」を見た(12月2日まで)。将軍家のほか、尾張、紀伊、水戸の御三家に伝わる品々には、天皇や公家をも制した武威が宿るかのようだ東に「落ちる」前の和宮が宮中で着たらしい打ち掛けも、初公開された。

我在上野的东京国立博物馆参观了“大德川展”(展览将持续至12月2日)。展出的物品不仅仅限于德川将军家族之物,还有尾张,纪伊,水户三大辅臣家族代代相承的用品,仿佛仍然保留着昔日毫不逊色于文职朝廷的武将威严。应是和宫公主东迁之前在宫中穿过的春秋礼服,也首次公诸于世。

 関ケ原の戦いと明治維新。二つの「乱」に挟まれた2世紀半の太平は、武家文化に余裕と落ち着きをもたらした。徳川宗家の18代当主、徳川恒孝(つねなり)さんは「沈んだ美意識」と表現する。国宝級の刀剣がたたえる輝きは「未使用のすごみ」だろうか

关原大战以及明治维新,两次大乱所裹挟的两个半世纪的太平,给武士文化带来了余裕和安定。德川宗家第18代当主德川恒孝,称之为“沉淀下来的审美意识”。国宝级的刀剑闪闪发光,原来是“不用的威慑(力量)”呀。(刀光剑影,不怒自威?“止戈为武”的精神?)

 格式を重んじる幕府のひざ元では、実を貴ぶ町人文化が開花した。食品や雑貨は、関東の物産より、洗練された上方の品が「下り物」としてあがめられた(中江克己『江戸ことば100選』青春新書)。和宮はさしずめ、究極の下り物ということになる。

在注重繁文缛节的幕府的近旁,盛开了务实的商家文化的花朵。食品杂货等等,比起关东物产而言,精巧雅致的宫廷用品“流入民间”后,颇受欢迎(中江克己《江户词汇100句》青春新书)。今天看来,当年的和宫公主(的用品?),堪称流入民间之极品。

 公家に寺社、武家、大衆、そして舶来と、文化の担い手がそろう江戸期。それらの競い合いや交流に、めりはりの利いた四季が彩りを添えたことだろう。キンモクセイが香る上野公園を帰りながら、日本文化の豊かな根を思った。

 江户时代,朝廷大臣当中汇集了佛门,武士,大众以及外来等各种文化的推动力量。交替有序的四季,一定给各种文化的竞争与交流平添了绚丽的色彩吧。我从丹桂飘香的上野公园回来的时候,不禁想到了日本文化的丰富多彩的根源。

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