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2007年09月16日の「天声人語」

作者:nandeziz… 文章来源:贯通论坛 点击数 更新时间:2007-10-11 20:05:46 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

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近所の公園に、淡い紅色をした秋海棠(しゅうかいどう)の花がひっそり咲いている。日陰を好む花だという。木立の下の暗がりが、そこだけ明るいように、ぽっと色づいている。

  附近的公园里,淡红色的秋海棠花默默地开放着。据说这种花喜欢背阴处。在那树丛阴暗处绽放的秋海棠,不断变深的花色似乎显示着它独自的亮丽。

 またの名を断腸花と呼ぶのは、悲しみを誘うかのような風情のゆえらしい。作家の永井荷風は、この花を愛(め)でて庭に植えた。居宅を断腸亭と称し、名高い日記「断腸亭日乗(にちじょう)」を42年にわたって書き継いだ。戦前から戦中、戦後を自由な精神で貫く日記の筆を起こしたのが、90年前のきょうである。

  这种花的别名叫做断肠花,据说那是因为它独具某种诱人悲从中来的风情所致。作家永井荷风就因为喜爱这种花,把它们栽种在自家的院子里。荷风还将自己的住宅命名为断肠亭,并在长达42年里坚持笔耕著名的日记《断肠亭日记》而不辍。在这本日记中作者贯穿始终地以自由之思想描绘了自己在二战前后以及战争期间的心灵图景,而荷风第一次操笔撰写《断肠亭日记》的日子正是90年前的今天。

 〈九月十六日。秋雨連日さながら梅雨の如し〉。以来、死の前日まで、時勢に背を向け、それでいて確かな時代への目は変わらなかった。盛り場や色街を徘徊(はいかい)しながら、中国への侵略を「長期戦争に窮し果て、俄(にわか)に名目を変じて聖戦と称する無意味の語を用い出した」と見通していた。

  “九月十六日。秋雨连绵 一如梅雨。”以这句话开头,永井荷风至死都未曾改变其虽与时局向背却具有的一副准确判断时势的眼光。他徘徊于烟花柳巷之间,却也能洞察当局侵略中国乃“因持久战致使走上穷途末路,俄顷间更名为‘圣战’亦不过毫无意义之文字游戏耳”。

 別の日には〈米国よ。速(すみやか)に起(た)ってこの狂暴なる民族に改悛(かいしゅん)の機会を与えしめよ〉と激しい。玉音放送を知って、〈あたかも好し……祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ〉。世捨て人ゆえに、目は覚めていた。

  某日的日记里有这样的激烈文字“美国啊,尔当迅速奋起 施与此狂暴民族以痛改前非之机会。”而当永井荷风得知电台里播放了昭和天皇亲口宣布承认并接受投降战败的广播时,又写道“此真乃大快人心事……众生铺张宴会 皆喜醉而眠。”正因为他大隐於市,方有如此清醒的头脑。

 荷風は日記を公表するつもりで書いたそうだ。今ならブログを開いただろうか。インターネット上の日記ともいえるブログの開設者は、国内で800万人を超す。閲覧者は4000万ともいう。誰もが表現者になれる半面、言葉による暴力といった負の面もある。

  据说荷风的日记是为发表而创作的。若在今日,他或许会开辟博客。据统计,如今开设网上日记博客的,日本国内超过800万人阅览人数达4000万。人人拥有表达自由的同时,也带来了变语言为暴力的负面影响。

 「断腸亭日乗」には、登場する人々へのあけすけな批評はほとんどない。言葉の達人はきっと、言葉の切っ先がいかに鋭く人を突くかを、よく知っていたのだろう。

  在《断肠亭日记》中,荷风不曾对任何提及的人物进行露骨的批评指责。笔者以为,正因为永井荷风是运用语言文字的高手,才更加理解笔锋所及之处对人具有何等锋利的杀伤力。

 

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