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2007年08月19日の「天声人語」
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作者:氷筍 文章来源:贯通论坛 点击数 更新时间:2007-10-11 19:37:29 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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论坛讨论地址: http://www.kantsuu.com/bbs/dispbbs.asp?boardID=121&ID=144035&page=3 昨日の本欄は「気持ちで涼を感じるゆとり」を呼びかけている。ゆとりと呼ぶほどの自信はないけれど、お盆休みに居た京都で、ささやかな涼味に何度か救われた。 昨天本栏所呼吁的“用心感受清凉之惬意”。虽无称为悠闲的自信,但盂兰盆节期间小憩在京都,数度为些许的凉意所眷顾。 炎天下で寺社を巡り、大原の三千院に着いたところで日が陰った。五感が我に返ったのか、チョボチョボという手水鉢(ちょうずばち)の音に耳が行き、池のアメンボに目が届く。虫が動くたび、雲を映す水面に同心円が薄く走る。そういうものが随分いとおしく見える。近くの寂光院では、天の打ち水のような通り雨に恵まれた。 烈日炎炎下游览寺院,抵达大原的三千院时,太阳躲了起来。许是五官苏醒了过来,洗手盆滴滴答答的响声传至耳畔,池中的水黾映入眼帘。虫子每每游动,映衬着云彩的水面便泛起层层涟漪。这一切显得颇为逗趣。附近的寂光寺还沐浴了一场犹如天公洗礼的骤雨。 嵯峨野を渡る風もうれしかった。〈涼しさを絵にうつしけり嵯峨の竹〉と芭蕉が詠んだ情景だろうか。竹林をくぐる細道を、葉ずれの音と、青い香が抜けていく。 掠过嵯峨野的风亦是神清气爽。“嵯峨之竹绘清凉于画”,想必这便是芭蕉所吟唱的情景吧。沿着贯穿竹林的蹊径,竹叶婆娑声与清香行吟而去。 そんな「ちょい涼(すず)」の体感は、再びの炎天下であえなく蒸発した。戸外(こがい)の高温多湿と、店や車内を満たす人工の冷気。10度の差を往復するうち、わずかな温度の揺らぎはどうでもよくなる。気持ちで涼を味わうには、なるほど心身と時間のゆとりが要りそうだ。 那种“点点凉意”的体感,再度在烈日下瞬间蒸发了。户外的高温多湿与店铺、车内的充足的人工冷气。往返于10度温差之中,细微的温度变化亦是好的。用心体味清凉,身心与时间的安然似乎大有必要。 うだる夏、底冷えの冬。晩年の谷崎潤一郎は京の寒暖差に耐えかね、渋々、熱海(あたみ)に越したという。そういう地に都があったから、四季の移ろいを受け流す知恵、楽しむ文化が広まったのかもしれない。負けずに遊べば、京に「さんずい」を添えるだけで涼しくなる。 慵懒的夏天、凛冽的寒冬。据说,谷崎润一郎晚年不堪京都的冷热温差,无奈移居到热海。许是在这种地方有了都市,应付四季变迁的智慧、享受的文化才得以盛行开来。傲视酷暑去游玩,只需在京字旁添上“氵”便会变得凉爽了。 清水(きよみず)の舞台には赤トンボが舞い、ヒグラシが聞こえた。秋の気配とするのは甘かろうが、時が連れ去るのも暑さ寒さである。川面(かわづら)の京名物、納涼床にせめて気持ちだけでも転がし、優しい季節を待つとする。 清水寺的眺望台上,红蜻蜓翩跹飞舞,能听到夜蝉的鸣声。以此视为秋的气息有些乐观,然而时光带走的也有寒暑。至少在河面的京都名产—纳凉床上,转换一下心情,等待美好的季节。
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