#1 作者:锈锈 2003-5-6 20:45:00)
海辺のカフカ
昨天晚上从200多页看到凌晨,今天一口一看完了,说实话没怎么看懂,要好好琢磨一下了,唉~好的作品一般来说都看不懂,看得懂就是通俗大众文学了
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海辺のカフカ
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作者:贯通日本… 文章来源:贯通论坛 点击数 更新时间:2007-7-3 23:15:33 文章录入:阿汝 责任编辑:阿汝 |
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#1 作者:锈锈 2003-5-6 20:45:00)
海辺のカフカ 昨天晚上从200多页看到凌晨,今天一口一看完了,说实话没怎么看懂,要好好琢磨一下了,唉~好的作品一般来说都看不懂,看得懂就是通俗大众文学了 #2 作者:锈锈 2003-5-7 10:31:00)
感想『海辺のカフカ』 02/10/03 村上春樹『海辺のカフカ』(新潮社)読了。 村上春樹の小説世界を、ぼくはとても好きだけど、ひとつだけ判断を留保し たい部分がある。多分、その留保する部分で、ぼくは村上春樹を全面的に受け 入れることが出来ないのだと思っている。今回の小説でもそういうことを強く 感じてしまったのだ。 村上春樹の小説に出てくる登場人物たちは、予め、みんな閉じていると感じ たのだ。小説の登場人物と人間一般を同列に語っても無意味かも知れないし、 また比較の対象として適当ではないかも知れないけれど、まあいい。 ぼくは人間はそんなに、つまり村上春樹の小説の登場人物ほどには、閉じて いないと思うのだ。 例えば、直感として合わないと感じたり、生理的に受け入れられないと感じ る相手であっても、初対面から閉じては対面しないはずだ。幾らかのやりとり をして、それで、怒るなり、無関心になるなり、そういう判断をすることはあ っても、初めからこういうタイプの相手には無関心で行こうなどとは決めてい ないはずだ(いや、そういうものだよと言う人は、多分、村上春樹の小説世界 に近い個性なのだと思う。で、現実世界では、むしろ、そういう方法を取るの は生きづらいでしょ?)。 が、村上春樹の小説の登場人物たちは、初めからそれを決めている。初めか ら閉じている。その割り切り方が、あまりにも秩序立っているように感じるの だ。だから、村上春樹の小説では主人公と異質なものは小説世界に登場するこ とはない。希に登場しても、それは登場人物たちの個性を引き出すためだけに 使われ、即座に小説世界から退場していく。登場人物たちの生き方は、だから、 とても似ているような気がする。描写として幾ら差異を際だたせても、どこか 同質のものを感じてしまうのだ。秩序立てて正しく暮らし、そうして、内面的 に悩み、その悩みに関して、周囲の登場人物たちも予め「判っている」のであ る。 これはどういうことなんだろう。 ぼくには、村上春樹の小説の特質と思われるこの登場人物たちの「同質性」 は、小説の内容と深く関わっているように感じられるのだ。つまり、村上春樹 の小説自体が外の世界に対して閉じているのだ。あたかもひとりの人間(それ は必ずしも作者村上春樹の内面ということにはならない)の幾つかの面を人格 化して登場人物とし、そうして小説世界の中に配置しているような、そういう 内面的なあまりに内面的な小説世界というような感じがしてならないのだ。 ぼくにはこの手法というか、そういう味わいは少し嫌な面としても感じられ るのだけど、しかし、だから村上春樹の小説が詰まらないということを言いた いのではない。むしろ、そのような仕掛けとぼくには感じられる村上春樹の小 説世界は、それがゆえに、言うに言われぬ優しい雰囲気をたたえ、独特の世界 を持つことに成功しているのだ。そして内面の深くどこまでも自在に深く潜行 出来るような奥行きを展開することも保証しているように思えるのだ。 他の開かれた小説(?)は関係性について自明のこととして、物語をどんど ん語っていく。登場人物たちの異質なあり方が物語の原動力なのである。 しかし、村上春樹の小説の場合、急激な展開を得るために暴力的な関係が使 われることはあっても、それ以外の部分での展開の仕方は、実に内省的、内面 的なのである。そこに登場する人物が複数いたとしても、そこで語られている ことは、まるでひとりの人間が自問自答しているようにも感じられるのだ。 この『海辺のカフカ』も例外ではない。 まだ『海辺のカフカ』の感想に入っていないけれど、以上のようなことを踏 まえて、ぼくとしては感想を書こうと思っている。 まず粗筋から。読んでない人やこれから読もうと思っている人は読まない方 が無難です。ネタバレとかいう性質の小説ではないけれど、やはり予め内容を 知ってしまうと興ざめするし。 この物語は、15歳の家出少年である(にしては、とても早熟で精神的にも 安定していて、あまりにも秩序立って行動出来る)田村カフカくんと、知的障 害の老人ナカタさんの物語が並行して書かれていく。 田村カフカくんは、幼い頃に両親が離婚しているようで、父親とふたりで暮 らしていた。父親は小説中には、はっきりとは登場しないが(なぜなら、他の 登場人物と異質だから、とぼくは理解する)、どうも育児、教育ということに 関して半ば意識的に積極的に放棄しているような印象を持たせることを田村カ フカくんは語る。田村カフカくんは、この父親を殺したいほど憎んでいる。で、 家出を決意する。田村カフカくんの物語のパートは家出して以降の、この少年 の遍歴を辿る。 一方、知的障害の老人ナカタさんのパートは、奇妙に童話的にマンガ的に進 んでいく。ナカタさんは戦時中下で小学生であったときに、疎開していた先で 奇妙な出来事に巻き込まれ、読み書きの能力を初め、ほとんどすべての知的能 力を失ってしまう。長い間、家具職人として働いていたが、年老いた今は、年 金生活をする傍ら、ささやかな収入を、家出した猫の捜索のアルバイトから得 ている。ナカタさんは読み書きの能力をはじめ、ほとんどすべての知的能力を 失ったことの代わりというように猫と話しをする能力を得たのだ。猫と会話し ながら、家出した猫を探す猫探偵という、何というか実に童話的なナカタさん のパートは、しかし、ある出来事を境に急激に展開していく。旅の仲間として トラック運転手の青年星野くんを得たナカタさんは、誰かに命じられているよ うに家出した田村カフカくんを追う形で旅を始める。もちろん、それが旅の目 的であることはナカタさんにも、星野くんにも判っていない。 田村カフカくんは四国にまで行き、旧家を改造した私立図書館で暮らし始め る。そこには美しい初老の女性館長佐伯さんと美青年である大島さんがいて、 田村カフカくんを庇護する。大島さんは特に田村カフカくんの全面的な教師で でもあるように田村カフカくんを教導していく。教導? ぼくにはこの大島さ んの行為、好意は教師的なものであると思えるし、また教導しているようにし か見えないのだ。図書館で静かに暮らし、また時に山小屋で孤独の内に暮らす 少年は、そこで佐伯さんの昔の恋人を描いた絵『海辺のカフカ』を観る。 佐伯さんの昔の恋人に同化したかのような田村カフカくんは初老の女性館長 佐伯さんに15歳の恋人の姿を見るようになる‥。 このようにして物語は四国の私立図書館で静かに沸騰しはじめる。そして、 みんながからまりあった頃、ようやく田村カフカくんに追いついたナカタさん と青年星野くんは、神話的な寓話的な方法で、この物語の全体にケリを付ける のだ。 と、ざっと粗筋を書くと、こういう具合。 無論、物語はもっと複雑だし、こういう粗筋には何の意味もない。ただ、こ ういう流れということだけ。 ある意味、この小説、この物語の本流は田村カフカくんの成長記になってい る。如何に彼は悩んだか、如何に彼はその苦悩と戦ったのか、彼の苦悩とは一 体何か、という具合に。 一方、ナカタさんの物語は、メタ・フィクシヨン的だ。田村カフカくんたち の物語自体にケリをつけるためだけにナカタさんたちは進んでいくように見え る。無論、ナカタさんたちのパートにも物語はある。しかし、こちらの物語は 田村カフカくんたちの物語と重なりあったもうひとつの現実というよりは、世 界を静かに廻し管理する人の物語という色彩を帯びている。だから、ナカタさ んの物語はどこか悲しい。まるで道化のような悲しみと言えば妥当なのかな。 もちろん、それは感じ方に過ぎないわけで、悲しいという感情を持ち出す必要 はないのだけど。ある意味、ナカタさんと青年星野くんは、ドン・キ・ホーテ とサンチョ・パンサと言った方がまだ正確かも知れない。 田村カフカくんたちの物語は、多分、『スプートニクの恋人』で示された絶 望的に孤独な状況から展開した地点にあるのではないかと思える。『スプート ニクの恋人』では、人々はまるで、それぞれが孤独に乗っている衛星の観測窓 から互いの衛星を見ていて、そういう関係の中で他者と生きるのだと書かれて いたように思ったのだが、実は、もっと濃密な関係、複雑な関係としての他者 が人間には予めある、あるいはそういう関係にならざるを得ない場合もあるの ではないかと、この物語で展開している感じがするのだ。例えば、田村カフカ くんの父親に対する嫌悪や、佐伯さんの昔の死んだ恋人との関係や、ナカタさ んを助ける星野青年とか。そういう様々な関係性の編み目。その編み目は、む しろ孤独以前の、何というか身体にからみつくものを示すのではないか。そう して、それらすべての関係性に、予め、関係性も含めたほとんどすべてを空っ ぽにされているナカタさんがケリを付けるわけだ。 田村カフカくんが山小屋でひとりで暮らす場面は『スプートニクの恋人』で 書かれていた次の部分に照応するように思える。 「「人はその人生のうちで一度は荒野の中に入り、健康的で、幾分は 退屈でさえある孤絶を経験するべきだ。自分がまったくの己れ一 人の身に依存していることを発見し、しかるのちに自らの真実の 隠されていた力を知るのだ」 「そういうのってすてきだと思わない?」と彼女はぼくに言った。 「毎日山の頂上に立って、ぐるっと360度まわりを見まわして、 どこの山からも黒い煙が立っていないことを確かめる。一日の仕 事は、ただそれだけ。あとは好きなだけ本を読み、小説を書く。 夜になると大きな毛だらけの熊が小屋のまわりをうろうろと徘徊 する。それこそがまさにわたしの求めている人生なのよ。それに 比べたら大学の文芸家なんてキュウリのへたみたいなものよ」 「問題は、誰しもいつかは山から下りて来なくちゃならないこ とだ」とぼくは意見を述べた。」 (村上春樹『スプートニクの恋人』8ページより引用) 山小屋で暮らし、そうして下山し、また山小屋に行き、更に森の奥に行き、 そうして田村カフカくんは帰還するわけだが、本当はここから『海辺のカフカ』 の物語は始まるのではないだろうか。 確かに、この小説では、『スプートニクの恋人』の孤独から少し抜け出た感 覚があった。が、状況は何も変わっていない。相変わらず人間はとても孤独だ し、それに暴力の中に生きている。でも、そういう中にあっても、少し見方を 変えれば、今まで見えなかった関係が見えてくるのではないかという感じを濃 厚に漂わせているのが、この『海辺のカフカ』なのだと思う。その関係を見た がために、見えてしまったために、より孤独になったとしても、やはりそれは 見えた方が良いし、見なければいけないものなのだから。 問題は、そういう状況の中でどのように生きていくかということだ。 人は時に山小屋に籠もるべきだが、しかし、その山小屋からいつかは下りて こないとならない。で、下りた後に様々な関係の波が押し寄せてくる。それは 自分では絶対にコントロール出来ないし、田村カフカくんのように誰かが庇護 してくれるわけでもない状況で生きていくしかないのだ。 孤独は深まったのだろうか、それとも薄れたのだろうか。 #3 作者:锈锈 2003-5-7 10:32:00)
日本の読者の感想だった #4 作者:クロネコ 2003-5-21 3:51:00)
びっくりました、最初 貴方様が 書いたの 思いました 僕は 未だ この 新作が 見たことない でも 村上春樹の作品が好きです 自分は <<ダンス ダンス ダンス>>の日本版しか 持って いません 僕も 早めに この本を 見たいです #5 作者:渡边灵 2003-7-2 17:46:00)
[emb6][emb2] 非常优秀的一部作品,个人认为是村上的一次飞跃。 情节更加引人入胜,像看金庸的武侠小说一样。 尤其是大岛与两个女权主义者的辩论 星野君与女哲学家的对话, 都很有创意!村上的长篇依旧没有让人失望, 较之《神的孩子都在跳舞》总体上好多了, 对于年龄差的性爱,偶依旧持有保留态度, 但对于《海》中的儿子与母亲,姐姐的性爱, 比起《挪威的森林》中的渡边与玲子,已经有很大进步了。 Pages :[1] 共 5 楼
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