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2004年8月02日の「天声人語」
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作者:鱼鱼 文章来源:贯通论坛 点击数 更新时间:2004-8-15 8:07:00 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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贯通会员翻译讨论作品,仅供参考,如果想参与讨论请登陆论坛天声人语版块。 夏の音というと、まずセミの鳴き声を思い浮かべる。騒々しい音とはいえ、夜になれば静まるし、秋風とともにやがて消えていく。騒がしさのなかに移ろいのはかなさを秘めている。 说起夏天的声音, 首先浮现在脑海的就是蝉的鸣叫声。说是比较噪杂的声音,但如果到了夜晚就变得比较安静了,待到秋风起时便渐渐消失于无声。(蝉的一生就)在吵闹声中不知不觉就渡过。 風鈴はどうだろうか。音で風を知り、涼しさを感じる。昔の人の知恵である。こちらは、ときおり微風に揺れて、ちりんと澄んだ音を響かせる。それくらいが好ましい。騒がしく鳴り続けては興ざめだろう。実際、近隣騒音として苦情の対象にもなるらしい。〈風鈴の鳴らねば淋し鳴れば憂し〉(赤星水竹居) 风铃怎么样呢?听到风铃的声音就知道风来了,并感觉到丝丝的凉意。这是古人的智慧结晶。风铃时而随着微风摇曳,可以听到丁丁铛铛般清脆的响声,这种程度倒是令人喜欢的。但令人扫兴的是这种噪杂的声音一个劲的响个不停。实际上, 也曾被近邻当作噪音而成为抱怨的对象。 風鈴は、涼しさだけでなく、怖さにつながることもある。静まりかえっているなかで不意に聞こえてくると、ぞくっとさせられる。不吉な使者の到来を思わせるときがある。〈ま夜中の風鈴が鳴るおそろしさ〉 风铃的声音不止让人感觉到凉爽,也有让人觉得恐怖的时候。在寂静的环境中不经意听到的话, 直令人倒吸一口凉气,有时候会被认为是不吉祥的使者来了。《午夜凶铃》(萩原麦草) セミの鳴き声は、アブラゼミの暑苦しいジージー、降り注ぐようなクマゼミのシャーシャーなどいろいろ形容されるが、こんな表現もある。〈母逝き四十九の昼すぎぬ呪(じゆ)といひて幹をはなるるつくつく法師〉(岡井隆)。四十九日の法要の午後、法師と名のつくセミが「呪」と鳴いて飛び去る象徴的な光景だ。 蝉的鸣声有时被形容成知了热的难受的唧唧声,和蚂蚱般如大雨倾盆的沙沙声,但也有这样的表现。(母亲逝世后四十九天时念着咒从树干离去的“法师”)(岡井隆)。四十九日的法事的下午,象征性的情景是以“法师”为名的黑寒蝉的鸣着“咒”飞去。 長い地中生活を終えてわずか1、2週間、地上で鳴いて命絶える。セミの一生への共感もあって、人々は自分の思いをさまざまに託す。 (蝉)结束长期在地下的生活后仅仅1、2周,便在地上鸣叫着死亡。拥有共同感慨的人们把自己的想法各自寄寓于蝉的一生。 〈蝉時雨(せみしぐれ)子は担送車に追ひつけず〉(石橋秀野)。結核を病んだ彼女は壮絶な闘病生活の末、戦後まもなく38歳で亡くなった。ベッドに横になって運ばれる自分と後に残す幼子、そしてセミしぐれとが哀(かな)しく響きあう絶唱だ。 (如蝉鸣的咶躁声中,孩子赶不上担送车)(石桥秀野)。得了结核病的她非常顽强的和疾病斗争到生命的最后,在战后不久就逝世了,享年38年。用担架运往就医的途中,身后的孩子和蝉鸣交织成一曲哀伤的绝唱。
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