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日本人为什么喜欢省略表达(上)(中日对照)

作者:佚名 文章来源:沪江 点击数 更新时间:2015-8-31 15:49:08 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

「さようなら」に別れの意味はない。「さようなら」、略して「さよなら」は、今や世界中に広く行き渡るようになった日本語です。


“さようなら”并不是离别的意思。日语“さようなら”以及简略后的“さよなら”到现在已传遍了世界。


「さようなら」は日本人の美しい別れの挨拶のことばです。「さようなら」を別れの時に遣うのはなぜか?「さようなら」ということばにはいったいどういう意味があるのか?なにをいまさら当たり前のこと、とお叱りを受けそうですが、非難を覚悟の上であえて「さようなら」を取り上げてみたいと思います。結論から言えば、「さようなら」ということば自体には本来、別れの意味は含まれていません。


“さようなら”是日本人依依叙别时的问候用语。为什么在离别时,要说“さようなら”呢?而“さようなら”到底代表什么意思呢?您或许会斥责说,这不是理所当然的话吗,哪用得着现在才解释一番。不过,即便遭到批评,笔者还是打算谈谈“さようなら”。从结论来说,“さようなら”这个词,原本并不包含离别的意思。


もともと、「さようならば」という接続詞なのです。前から続いていた話に一区切りをつけ、「それならば」「しからば」「そういうことでしたら」という結論へいたるための導入の接続詞です。すなわち、「さようなら」だけでは別れの意味はなく、「さようならば」といったん話を打ち切って、「これにて失礼いたします」と挨拶語を述べるのが本来の正しい別れの挨拶のことばなのです。


在过去,“さようなら”属于接续词的用法,也就是“さようならば”。说到接续词,也就是像“それならば”“しからば”“そういうことでしたら”这类用法,承接前文,把文句分割成段。换言之,“さようなら”其实并没有别离的意思,而原本正确的离别问候,也应是先说“さようならば(那么)”,结束谈话,接下来再说“これにて失礼いたします(我先失陪了)”。


最近ほとんど遣われなくなっていますが、「さらば」も同じです。「それならば」「それでは」という意味の接続詞です。「さらば、いかがしたらよかろうか」などと昔は遣っていました。「さようなら」を遣わなくて、「それでは」とか「それじゃあ」、あるいはもっと略して「では」と言って別れる人もいますが、それも同じ接続詞から来たことばなのです。


而到了最近,这种用法几乎不怎么使用了。“さらば”也是同样的,原来是接续词“それならば”“それでは”。过去人们常会说“さらば、いかがしたらよかろうか(既然这样,请问您高见?)。另外,有的人在告别时不说“さようなら”,而是说“それでは”、 “それじゃあ”,或者进一步省略成“では”,这些用法也同样来自于接续词。


「さらば」は卒業式などでよく合唱した『仰げば尊し』(明治17年〈1884年〉)に「今こそわかれめ いざさらば」と末尾で「さらば」が遣われています。友との別れが「さらば」ということばで締めくくられる心地よさを味わったものです。「さらば、友よ」――いい響きでしょう。


常常在毕业典礼上合唱的歌曲《仰望师恩》(明治17年)中唱到,“今こそわかれめ いざさらば(一挥双手,别离今朝)”,歌词末尾也出现了“さらば”。和友人的别离,会因一句“さらば”的告别,一扫内心的苦闷。比如“さらば、友よ(别了,朋友)”,就带给人美好的心灵回响。


ことばを省略したがる日本人


こうして見てきますと「さようなら」という別れの挨拶語も元は接続詞で、別れの意味を含まず、当然、その後に続くはずの「これで失礼します」という別れの挨拶語が省略されているのです。


喜欢省略词语的日本人


这样看来,“さようなら”这个离别问候语原本是接续词,并不包含离别的意思,那么自然也就意味着,本应跟在其后的离别问候“これで失礼します”被省略掉了。


日本語には後に続く肝心なことばを省略してしまう癖があります。たとえば関西の商店で買い物をすると、店の人から「おおきに」と感謝されます。この「おおきに」は副詞で、「ありがとう」につけて強調して「おおきにありがとう」ということばになるはずだったのに、いつの間にか「ありがとう」という肝心のことばが省略され、「おおきに」だけになりました。


日语常有一种倾向,那就是省略后面的关键词语。比如你在关西地区的商店买东西,店员对表示感谢会说“おおきに”。而这个“おおきに”其实是副词,它强调后面的“ありがとう”,原来的形式应该是“おおきにありがとう”。然而不知不觉地,关键的“ありがとう”被省略了,仅留下了“おおきに”。


英語では感謝のことば「サンキュー」を強めると「ベリー・サンキュー」となりますが、それを「ベリー」だけで切ってしまったようなものです。「ベリー」という副詞だけではなんの意味もありません。論理的には間違いなのですが、そうした省略が日本語に多く見られるのです。


在英语里,对感谢用语“Thank you”进行强调时会说“Very thank you”,而“おおきに”的用法就相当于留下“Very”,省掉“thank you”。在英语里,仅用“very”这个副词毫无意义,在逻辑上也说不通。可在日语里,类似这样的省略却屡屡可见。


日常の挨拶語も同じです。「こんにちは」や「こんばんは」も、元々「今日は、よいお日柄で」とか「今晩は、よき穏やかな晩です」という、後に続くはずの挨拶語が略されているのです。


日常用的问候语也是同样的。比如“こんにちは”和“こんばんは”,原本说的是“今日は、よいお日柄で(今天是个好日子)”和“今晩は、よき穏やかな晩です(今晚安详惬意),而本该接续在后面的问候语却被省略了。


外来語でも何でも日本人はすぐに省略して遣います。「コンビニエンス・ストア」は「コンビニ」、「パーソナルコンピュータ」は「パソコン」か「PC」、木村拓哉さんは「キムタク」です。数え上げたらきりがありません。長いフレーズでも3字か4字に省略されてしまうのです。


无论是外来语,还是其它的词语,日本人都会立即进行省略。比如“コンビニエンス・ストア”略为“コンビニ”,“パーソナルコンピュータ”略为“パソコン”或“pc”,木村括哉的名字被简略为“キムタク”。这类例子不胜枚举。甚至连长些的句子也能被省略成3、4字。


主語が省略されたり、肝心なことばが略されたり、日本語は言語学的に見ても欠陥だらけで未成熟言語のように思われるかもしれません。その点、英語は主語・述語・目的語がはっきりしていて、主張すべきことを論理的によどみなく展開できる構造になっています。日本人が外交などでいつも自己主張ができないと言われるのも、こうした言語上の欠陥があるからだと指摘する人もいます。


按语言学的观点来看,省略主语、省略关键词的日语难免不会被视为一种破绽百出的不成熟语言。而在这一方面,英语的结构则主谓宾语清晰明确,能够有条理、毫不含糊地展开论点。因此有人认为,日本人在外交等事务中总是不能主张自己的观点,也正是由于这种语言上的缺陷。


第二次世界大戦後、日本が戦争に敗れたのは文化の差であり、言語に欠陥があったのだから、これからは日本の公用語をフランス語に切り替えたらどうか、と暴論を吐いたある著名な作家(志賀直哉)までいました。もし彼の意見が採用されていたら、今頃、わたしたちの言語生活はどうなっていたでしょうか。学校教育は英語かフランス語で、公的な発言などは下手な外国語で話さなければならず、唯一、仲間内の時だけ密かに日本語で愚痴を言うような国民になっていたかもしれません。


第二次世界大战后,著名的作家志贺直哉甚至大放厥词,称日本在战争中失败是由于文化上的差距,因为语言上存在缺陷,今后应该废除日语,把公用语改为法语。要是采用了他的建议,今天我们的语言生活会是怎样的呢?没准儿我们会成这样的国民:学校里教授的是英语或法语,人们在公共场合发言必须说一口生涩的外语,只有在朋友相聚时,才能偷偷用日语发发抱怨。


それでも、憧れの英語やフランス語を自在に駆使できるのだったらその方がよかった、と思う人もいるかもしれませんね。


不过即便如此,恐怕还是有人会觉得,能流利地用自己憧憬的英语和法语对话也不挺好的吗?


東南アジアのある国の学生がアメリカに留学し、偶然、祖国の学生と出会えたので、久々に母国語を話せて心安らぐ時間を過ごし、その後、お互いに勉強している専門領域の話題になると母国語ではまったく語れず、泣きながら英語で話し合ったという気の毒な話を聞いたことがあります。


笔者听过一个可悲的故事,东南亚某国的学生到美国去留学,偶然遇上自己祖国的学生,两人谈笑风生,久违地用本国语言拉起了家常,而之后,在相互交流各自所学专业的问题时,却完全没法用母语交谈,无奈只得又用起了英语。


ことばは文化であり、ことばは民族の誇りなのだ、ということを日本人はついつい忘れがちです。


语言是文化,语言是民族的骄傲。日本人很容易在不自觉间忘记这点。




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