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日语vs英语:与语言差异有关的趣事(中日对照)
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作者:来源 文章来源:nifty 点击数 更新时间:2015-6-25 15:22:47 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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言葉というものについて、その面白さについて、いままでいろんなことを書いてきました。振り返って読んでみると、うっかり同じことを2回書いていたりもするのですが、でも、まだまだ言葉の面白さは尽きないなあというのが、Web での執筆生活10年を超えた私の正直な感想です。 关于语言及语言的乐趣,至今为止我写了很多相关内容。拥有10年多网络写作经验的我回过头去再次品味那些文字时,会真心觉得语言的魅力依然是无穷无尽的,尽管有些内容一不小心就写了两遍。 言葉を使った面白い遊びというものもありますし、言葉そのものの持つ面白さというものもあります。とてもじゃないけれど、書ききれるようなものではありません。 有的文章介绍了趣味语言游戏,也有的是挖掘语言本身的乐趣的。语言这东西,怎么写都写不完。 例えば、言葉を使った面白い遊びとしては、このシリーズ エッセイではあまり取り上げていません(一度だけここで取り上げました)が、回文というものがあります。 (注:回文,亦称回环,正读反读都能读通的句子,是一种修辞方式和文字游戏,在很多国家的语言里都有,深受文人墨客及百姓们的喜爱。) 举个例子,说到有趣的语言游戏,我在这个随笔系列中写的还是挺少的(只有一次),这次来介绍下回文吧。 回文というのはまことに日本語に適した遊びです。と言うか、例えば英語などの外国語では却々作るのが難しいものです。それは説明するまでもないでしょう。 说到回文,这游戏确实适合日语。或者这么说,要是在英语这些外语中,编写起来肯定是比较困难的,这点不用说大家也明白吧。 でも、とは言え、神様がお作りになった最初の人間、最初の男女であるアダムとイブの最初の会話が回文であった、というのはご存知ですか? 话虽如此,不过大家是否知道,上帝最初创造的人类、最原始的那对男女亚当和夏娃,他们最初的对话就是回文。 これはかなり有名な英語の回文です。アダムが話しかけ、イブが答えます。 这个英文是相当出名的,亚当搭话、夏娃回答。 Madam, I'm Adam. (お嬢さん、僕はアダムです) Eve. (イブです) 女士,我是亚当。 我是夏娃。 どうです、アダムとイブ、どちらの台詞も回文です。 没错吧。不管是亚当的台词还是夏娃的台词都是回文。 この回文を私が知ったのはもう何十年も前、多分高校生か大学生の頃だったと思います。でも、その時に私が「でも」と思ったことが2つあります。 我是在几十年前知道这个回文的,大概是高中或者大学的时候。只是当时,我有两个比较疑惑的地方。 1.でも、Madam って結婚してる女性への敬称ではないの? 2.でも、イブの言葉が Eve だけってのは無理があるだろう?せめてI'm ぐらいはつかないか? 1、Madam不是对已婚女性的尊称吗? 2、夏娃的回答就只有“Eve”这一个单词,有些勉强吧。至少应该加上“I'm”不是? でも、この2つとも後に正しい認識ではないことが分かりました。1)のほうは辞書を引けばすぐに分かることで「女性に対する一般的な敬称」とあります。そして、2)のほうはアメリカの映画などを見ているとごく普通の会話だと分かります。 不过后来我明白了,这两个疑惑都是误解。第一点查下辞典就知道了,Madam是“对女性的一般性尊称”。第二点的话,看看美国电影就知道这是很正常的对话。 例えば、 男が女に握手を求めて、 Tom Wilson. (トム ウィルソンです) 比如, 男性想和女性握手 说(我是)Tom Wilson。 女が男の手を握り返して、 Nancy MacGregor. (ナンシー マグレガーよ) 女性回应男性,并和其握手, 说(我是)Nancy MacGregor。 とか。いや、別にテキトーに書いてみただけで、何かの映画を引用したわけではありません。ただ、洋画をたくさん見ているうちに、こういうのは当たり前なのだと知ったのでした。上のアダムとイブの会話のように、一方がフル センテンスで自己紹介して、他方が姓名だけで答えるというパタンも少なくありません。 哎呀,我就是那么一写,并非是引用了哪部电影。只是西方电影看多了,就会明白这是很正常的。像上面亚当和夏娃的对话一样,一方用完整的句子做自我介绍,另一方只回答姓名的情况并不少见。 これって、不思議だと思いません? 关于这点,各位不觉得很不可思议吗? 日本では、日本語では、まずこういう会話はありません。まあ、その前に握手を求めることからして少ないのかもしれませんが(笑) 在日本,在日语中,这样的对话肯定是没有的。光从自我介绍前的握手来看,可能就很少见吧(笑)。 日本語の場合は、「山田太郎です」とか「僕は山田太郎」とかはあっても、「山田太郎」なんて自己紹介はあり得ません。下手すると、「はあ? 何言ってるんですか? 僕は佐藤ですけど?」なんて返されそうです。 在日语中,就算有“山田太郎です”、“僕は山田太郎”这样的自我介绍,也不会有“山田太郎”。一不小心,对方可能就会这样回应:“哈?您说啥呢?我是佐藤啊。” 日本語って、私もここに何度か書いていると思うのですが、大胆な省略ができることが特徴だと思うんです。主語がなくても、動詞がなくても、変なとこで切れていても不思議に文が成立してしまうのが日本語なんです。確かに英語でも口語となるとかなりの省略が許されますが、とても日本語には及びません。 关于日语,我想我也说过很多次了,那就是有这样一个特征——能进行大胆的省略。即便没有主语、没有动词,在奇怪的地方断句,神奇的是句子也能成立,这就是日语。说到英语,到了口语中也确实会省略不少,但是和日语还是差远了。 ところが、自己紹介の場合は英語では完全省略できるのに、日本語ではできない、と言うか、状況がそれを許さないんですよね。あるいは、握手という状況が英語に省略を許すのかもしれませんが。 但是,要是说到自我介绍,英语就能完全省略,日语却不能,或者说,是情况不允许吧。这么说吧,也许是握手这种礼仪使得英语中能够允许省略。 そういう風に考えていると、言葉に関する面白い話がどんどん広がって行きます。だから、このエッセイシリーズもまだまだ書き続けられそうな気がするのです。 这么一想的话,关于语言的趣事便能越挖越多。所以我觉得,这个随笔系列还能写很多。 人がいて、言葉をしゃべって、面白さが広がって、エッセイが書けます。 有人在,然后说着话,于是趣事越来越多,随笔越写越多。 あ、そう言えば、これも有名な英語の回文です──人がいて、計画があって、運河ができた。パナマ! ( A man, a plan, a canal, Panama! ) 啊,话说回来,这也是句有名的英语回文——有了人、有了计划、有了运河、巴拿马!( A man, a plan, a canal, Panama! )
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