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贯通会员翻译作品《白云愁色》

作者:华南虎 文章来源:贯通论坛 点击数 更新时间:2005-10-24 11:21:00 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

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白雲愁色(はくうんしゅうしょく)

白云愁色

一匹のトンボが夏の終わりを告げるわけでない。一片の白雲が秋の到来を知らせるわけてもない。しかし、里に下りてきた赤トンボをよく見かけるようになった。雲の風情(ふぜい)も夕焼け空も、今までとは違う。そして高校野球の終わりは、夏の終わりを告げる。

一只蜻蜓并不报道夏日的终结。一片白云并不预告秋日的来临。然而,乡村里,红蜻蜓已随处可见。云的容姿、天边的晚霞都已改变了模样。而此时高中棒球赛的落幕,则宣告了夏日的终结。

「夏の終わり」には、客がいっせいに帰ったあとの食卓のような、むなしさがある。人の来なくなった海岸のヨシズ張りの小屋で「氷」のノレンがぱたぱたと鳴るときのような、白々(しらじら)しさがある。夏の情熱を吹き込んで、きらきら燃えていた太陽が、すべてが終わろうとしているのに、まだ無神経に輝きつづけている。そのそらぞらしさが、夏の終わりなのだろう。

“夏日的终结”就像顾客离席归去后的餐桌,空虚无奈。就像海边那已无人问津的席棚小店上那写着"冰"字的幌子,徒在风中飘摆作响而兴尽意阑。然而,在这一切行将没落之际,倾注着夏日浓情、煌煌燃烧着的太阳却依然懵懵懂懂地挥洒着光芒。而这种强装的声势,正所谓夏日的终结吧。

白雲愁色の季節だ、と倉嶋厚(くらしまあつし)「お(ちゃ)間歳時記(まさいじき)」に、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)のことが書かれていた。「明月帰らず碧海に沈み白雲愁色蒼梧に満つ」とは、仲麻呂の死を悼んだ李白の詩である。仲麻呂は十六歳で唐に渡った。けんらんと文化の花がさく玄宗皇帝の世だった。彼はそのまま長安の都に住みついたが、望郷の思いは()(がた)かった。

“那是个白云愁色的季节”,仓岛厚的《餐室岁时记》中记述到阿倍仲麻吕时,曾这么写道。而“明月不归沉碧海,白云愁色满苍梧”则是李白为仲麻吕所作的悼亡诗句。仲麻吕十六岁渡海赴唐。正值文采绚烂的玄宗之世。他就此居留都城长安,然而乡愁之念终难断绝。

五十二歳になって、日本に帰ろうとする。船は暴風で沈み、仲麻呂は水死したと信じられた。李白がこの友人の死を悲しんだのが「白雲愁色」の一篇である。実は、仲麻呂は九死に一生得て、今のベトナムに漂着した。その後長安に戻ったあと、ハノイの長官をやったり、帝室図書館長をつとめて七十歳で死んだ。

五十二岁那年,欲回日本。不料船遇暴风,皆以为仲麻吕已溺水身亡。李白痛悼好友之死,伤心之余而写下了“白云愁色”之作。其实,仲麻吕在九死一生之后,漂到了现在的越南。之后他重返长安,曾任河内的地方官和皇家图书馆长等职,享年七十而终。

中国にあること実に五十三年。その間、日本からの留学生の面倒をよく見た。十六歳の仲麻呂といっしょに、吉備真備(きびのまきび)も二十二歳で唐に行った。彼は中国十八年で日本に帰り、政界の荒海(あらうみ)を渡って、右大臣(うだいじん)にまで出世した。今様(いまよう)にいえば、二人とも奈良時代のフルブライト留学生だったが、命がけの旅だった点が現在とまったく違う。

   阿倍仲麻吕在中国生活了五十三年之久。其间,他非常照顾来自日本的留学生。当年,与年仅十六岁的仲麻吕同赴大唐的,还有时年二十二岁的吉备真备。而吉备真备在留学中国十八年之后回到日本,历渡宦海波涛,青云直上,官至右大臣之职。用现在的话来说,这两位可称是奈良时代的富布赖特留学生,而与现在不同的是,他们当时踏上的是一条性命悠关的旅途。

ジェット機が白雲に乗って、東京―北京間を四時間半で飛ぶ時代となった。

   斗转星移,如今喷气机乘白云而飞,由东京到北京仅需短短的四个半小时了。

                     深代 惇郎 「天声人語」

深代 惇郎 《天声人语》

注:富布赖特项目

富布赖特项目是美国在全球范围内开展的、有良好声誉的大规模国际合作交流项目。该项目创建于1946年,以其倡议者前美国参议员富布赖特命名,旨在通过教育和文化交流来促进国家间的相互了解。目前,约有来自140多个国家的25,5000人参与了此项目。中国是最早参与富布赖特项目的国家之一。


 

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