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贯通会员翻译作品《九十九里滨的初夏》

作者:华南虎 文章来源:贯通论坛 点击数 更新时间:2005-5-2 6:12:00 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

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九十九里滨的初夏

我经常带上妻子在沿着沙丘的防风林中先走上一段,然后两人在小松树稀稀落落的高高的沙岗上坐下来歇息。

五月的阳光斜照着白色的沙滩,微风裹着海潮的芳香,轻轻地吹响那郁郁葱葱的松树枝。我饱尝着这空气中的美味,浑然陶醉。眼下正是五月松树花盛开的时节。在黑松绽露出的新芽的头上,颤巍巍堆满了细小的、黄黄的、草袋状的、粉扑扑的单性花球。就在九十九里滨我第一次领略到了松树花粉飞舞的壮观。防风林上黑松的花盛开的时候,花粉乘上从大海那边吹来的风,漫天飞舞,声势浩大,令人叹为观止。飞扬着支那黄土的沙尘则是浑浊、昏暗而又骇人的,杉树花粉的随风飘荡能让人联想起它来,但给人明亮、透明的感觉,带着妙不可言的芬芳填满所有的空隙。花粉盛的时候连客厅内花粉都会堆积起来。我轻轻地掸掉积在妻子单衣肩部的花粉,站了起来。

妻子拨开脚边的沙子,一个劲儿地寻找着松露。随着日头偏西涛声越发地响起来了。咫尺间,白鸻在眼前飞快地走动着。

                     高村 光太郎 《九十九里滨的初夏》

作者介绍:

  高村 光太郎(1883~1956)雕刻家、诗人。东京出生。东京美术学校雕刻科毕业,继而进研究科深造,曾一时转西洋画科。求知欲旺盛,学过英语、法语、小提琴等,观摩过戏剧,从中国的历史到丸善(注:日本最早介绍西洋书的著名书店名。现在仍在经营中,范围已经拓展到美食和时装等)的西洋书,阅读广泛。对针对青年期受人生怀疑之苦的宗教性说教也有所关心。就在那个时期认识了新艺术的引路人罗丹。从明治39年到42年赴纽约、伦敦、巴黎留学,这对光太郎的一生产生了决定性的影响。归国后成为《昂》的同人,从耽美诗风转向了理想主义,完成了充满生命感和伦理性意志的高高调的口语自由诗《路程》。主要著作有《路程》、《智惠子抄》、《典型》等。

注:松露(truffe)是一种生长在地底下的蕈菇,旧传单、蒜头、麝香,甚至连精液都曾被用来形容松露的味道。这种让欧洲人神魂颠倒的「香气」,也就是松露魅力所在。

  人类食用松露已有千年的历史了,据说松露具有催情的效果,因此在欧洲,松露一直被视为如春药般的珍馐。法国人对松露尤其痴迷,十九世纪巴黎著名的交际花欧里妮更留下:「我爱男人,因为我爱松露」的名言。过去它是法国贵族饮酒作乐不可或缺的顶级食材,因而让松露带有奢靡的神秘意象。

  要吃松露,那可先得去猎松露。所谓的猎松露,并不是荷枪实弹去森林打猎,而是带著猎狗,去橡树林去寻找生长在地底下的松露,而采松露的人就叫松露猎人(Caveur)。

原文:

九十九里浜の初夏

私は妻を誘っていつも砂丘づたいに防風林の中をまず歩く。そして小松のまばらな高みの砂へ腰をおろして二人で休む。

五月の太陽が少し斜めに白い砂を照らし、微風は海から潮の香りを含んで、あおあおとした松の枝をかすかに鳴らす。空気のうまさを満喫して私は陶然とする。丁度五月は松の花のさかりである。黒松の新芽ののびたさきに、あの小さな、黄色い、(たわら)のような、ほろほろした単性の花球がこぼれるように着く。松の花粉の飛ぶ壮観を私はこの九十九里浜の初夏に始めて見た。防風林の黒松の花が熟する頃、海から吹き寄せる風に乗って、その黄色い花粉が飛ぶさまは、むしろ恐ろしいほどの勢いである。支那の黄土をまきあげた黄塵というのは、素より濁って暗くすさまじいもののようだが、杉の花粉の風に流されるのは其の黄塵をも想像させるほどで、ただそれが明るく、透明の感じを持ち、不可言の芳香を漂わせて風のまにまに空間を満たすのである。さかんな時では座敷の中にまでその花粉がつもる。妻の浴衣の肩につもったその花粉を軽くはたいて私は立ち上がった。

  妻は足元の砂を掘って、しきりに松露(しょうろ)の玉をあつめている。日が傾くにつれて海鳴りが強くなる。千鳥がついそこを駆けるように歩いている。

                 高村 光太郎 「九十九里浜の初夏」

作者紹介:

   高村 光太郎(18831956)彫刻家、詩人。東京の生まれ。東京美術学校彫刻科卒業。引き続きを研究科へ進み、一時洋画科に転じた。知識欲旺盛で、英語、仏語、バイオリンなどを習い、芝居見物もするというような調子で、中国の史書から丸善の洋書まで読書範囲も広い。青年期の人生への懐疑に悩み宗教的な説教にも関心を示した。新しい芸術への導き手としてのロダンを知ったのもこの時期である。明治39年から42年までのニューヨーク、ロンドン、パリへの留学は、光太郎の生涯に決定的な影響を与えた。帰国後、「スバル」の同人となり、耽美的な詩風から理想主義に転じ、「道程」で生命感と倫理的意志のあふれた格調の高い口語自由詩を完成した。主な著作に「道程」、「智恵子抄」、「典型」などがある。


 

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