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2005年01月11日の「天声人語」

作者:海の魚 文章来源:贯通论坛 点击数 更新时间:2005-2-5 7:58:00 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

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宇宙からみれば、地球は芥子(けし)粒のようなものという福沢諭吉は、人間をいろいろなものにたとえている。塵(ちり)、あるいは埃(ほこり)。ボウフラ、ウジ虫、アリ、バッタ等々である。

说从宇宙里看起来,地球是象芥子粒那样的东西的福泽渝吉, 把人類比喩成各種各様的東西。塵埃,或者灰塵。孑〓,〓虫,〓蟻,蝗虫等等。

 「一寸の虫にも五分の魂」という俚諺(りげん)もあるように、人を虫に見たてることは多い。はかなさから露にたとえられることもまたしばしばだ。たとえば能のせりふ「げに理(ことわり)や露の身は、電光朝露石の火の……」は、はかないものを列挙する。

就像所謂「一寸的虫子也有半寸的靈魂」的諺語那様,人常常被看作為是虫子。虚无飄渺被比喩成露珠也是常有的事情。比方説到能的專用語就以「....  電光朝露火石的」等无法衡量的事物来舉例。

 あなたの「時価」はいくら?と尋ねられて「ゼロ」と答えた新成人が一番多かった。先日報じられたセイコーのインターネットによるアンケートの結果である。理由は一様ではないようだ。一方で「無限大」と答えた若者もけっこういたというから対比が興味深い。

袮「現在的价値」是多少?訪問后回答是“0”的新成人是最多的。這是前几天被報導的賽可根据网絡調査得出的結果。理由好象不太一致。据説一方面回答「无限大」的年軽人也有不少,形成很有意味的對比。

 たとえ話をつづければ、昔のはやり歌の「おれは河原の枯れすすき……」(船頭小唄)には、日本人好みの哀愁と諦観(ていかん)が漂う。同じように川辺に群生する葦(あし)だが、「人間は考える葦である」(パスカル)というと、哲学的思索の世界に踏み込む。

即便継續説下去,古時候流行的歌謡「我是河灘枯萎的草儿...」(船頭小調)中,也漂浮日本人喜好的哀愁和達観。雖然同様是在河灘遍上簇生的芦葦,如果説「人類是会思考的芦葦」,那就踏入了哲学思索的世界。

 福沢が「人間の如き、無智無力見る影もなき蛆虫(うじむし)同様」(福翁百話)と語ったのは、所詮(しょせん)人生は戯れでしかなく、万事をあまり重く見ない方がいい、というためだった。その方が思いつめて極端に走ることもないだろう。しかし、本来戯れと知りながら戯れをまじめに勤めるべきだ、とつづける。それが人間の人間たるゆえんだ、と。パスカルの思索との距離は近い。

福択説過「人類就像没智力没力気落魄不堪的〓虫一様」(福翁百話),据説因為帰根到底人生只不過是一出戲,万事不要太過看重的比較好。用這个方式好好思量就不会走入極端了巴。接下去還説,可是,知道原本就是一出戲還是應該認真演出。説這就是人類之所以成為人類的原因。和怕斯喀的想法距離很近。

 先のアンケート結果を借りれば「人間はゼロに等しく(ひとしく)、同時に無限大でもある」とでもいおうか。

如果借用之前的問巻結果也能説「人類都等同零,同時也无窮大」巴。

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