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2005年06月28日の「天声人語」

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1944年(ねん)、昭和(しょうわ)19年(ねん)の7月(しちがつ)、激戦(げきせん)のサイパン島(とう)で日本(にっぽん)軍(ぐん)が壊滅(かいめつ)した直後(ちょくご)、米(べい)紙(し)に「島(しま)のジャンヌ・ダルク」と報(ほう)じられた日本人(にっぽんじん)女性(じょせい)がいた。鶴見(つるみ)俊輔(しゅんすけ)さんが『昭和(しょうわ)戦争(せんそう)文学(ぶんがく)全集(ぜんしゅう)/海(うみ)ゆかば』(集英社(しゅうえいしゃ))の解説(かいせつ)に記(しる)している。

 「日本(にっぽん)軍(ぐん)最後(さいご)の玉砕(ぎょくさい)地点(ちてん)で発見(はっけん)したのは、意外(いがい)にも、手榴弾(てりゅうだん)(しゅりゅうだん)で自決(じけつ)をはかり下腹部(かふくぶ)に重傷(じゅうしょう)を負(お)っていたワック(女(おんな)兵士(へいし))だった……この勇敢(ゆうかん)な“女(おんな)戦士(せんし)”のヤマト・ダマシイに強(つよ)く心(こころ)をうたれた」。ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンは、そう書(か)いたという。

 この時(とき)に18歳(さい)だった菅野(かんの)静子(しずこ)さんは、山形(やまがた)県(けん)で生(う)まれて間(ま)もなく、一家(いっか)でサイパンに近(ちか)いテニアン島(しま)に移住(いじゅう)した。44年(ねん)6月(ろくがつ)、米(べい)軍(ぐん)がサイパンに上陸(じょうりく)した時(とき)、陸軍(りくぐん)野戦(やせん)病院(びょういん)の看護婦(かんごふ)を志願(しがん)した。

 追(お)いつめられ、やがて自決(じけつ)してゆく兵士(へいし)たちを看護(かんご)した。いよいよ米(べい)軍(ぐん)が迫(せま)った時(とき)、野戦(やせん)病院(びょういん)を出(で)て生(い)き残(のこ)るようにと言(い)われたがとどまった。自決(じけつ)しようとし、意識(いしき)不明(ふめい)の状態(じょうたい)で発見(はっけん)される。

 トラックで収容(しゅうよう)所(しょ)へ運(はこ)ばれる途中(とちゅう)、断崖(だんがい)(だんがい)の近(ちか)くを通(とお)った。そこから身(み)を投(な)げた多(おお)くの女性(じょせい)の死体(したい)が、眼下(がんか)の波打(なみう)ちぎわに浮(う)かんでいた。背中(せなか)と胸(むね)に、子(こ)どもをひとりずつ縛(しば)りつけた人(ひと)もいる。「日本(にっぽん)の人(ひと)は、なぜ、こんなに死(し)ぬのでしょうね」。ひとりの将校(しょうこう)が、泣(な)いていた(菅野(かんの)さんの手記(しゅき)「サイパン島(とう)の最期(さいご)」から)。

 天皇(てんのう)ご夫妻(ふさい)がサイパンを訪問(ほうもん)中(ちゅう)だ。今日(きょう)は、61年(ねん)前(まえ)に多(おお)くの女性(じょせい)が飛(と)び降(お)りた「バンザイ・クリフ」での慰霊(いれい)も予定(よてい)されている。あの戦争(せんそう)の時代(じだい)は遠(とお)くなっても、遠(とお)のくことのない記憶(きおく)がある。

一九四四年(昭和19年的7月),日本军在激战的塞班岛被歼灭之后紧接着有位日本女性在美国报纸上报道了《岛的贞德》。鹤见俊辅在《昭和战争文学全集/海行波》(集英公司)的解说中记载着。

在日本军最后的玉碎地点意外地发现要用手榴弹自杀却未成下腹部受到重伤的女兵......据说纽约的先驱报中这样写道:“ 被这位勇敢女战士的日本民主精神深深打动.”

这时18岁的菅野静子,在山形县出生,不久一家移住到离塞班不远的提尼安岛。44年6月,美军登陆塞班时,志愿成为了陆军野战医院的护士。

 护理一些因被追逼要自杀的士兵们。被美军逼迫的关键时刻,虽然让离开野战医院保住性命,但还是留职了。正要自杀而在于意识不清的状态下被发现了。

用卡车运向收容所的途中,通过了悬崖附近。岸边浮现很多从那里投身死亡的女士尸体。也有后背和胸前紧紧裹着孩子的人。「日本人为什么这样死呢」。一位军官流泪了。(菅野的手记「塞班岛的末日」)。

天皇夫妻访问塞班的时候。今天是在61年前许多女性跳下的「万岁悬崖」的祭奠也被预定。那个战争时代虽已消失,但有着挥之不去的回忆

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